
目 次
生きていることを告げてくれる短歌
假寢よりさめたる部屋にたましひの寄りてとまらむ枝さへもなし(岡山巖)
長谷川書房『遭遇』
(心理のみだれ)より
相見ている以上の視線に感謝できる関係がある。
たしかな体温をもったその視線は、時に人が冷たくなる人生を耐える上で、支えとなる力がある。
しかし、そのような関係の存在など信じられなくなることもあるのである。
孤独
孤独を観念するとはそういうことではないかと。
岡山巖の作品群は、孤独の中にあって、たしかに生きていることを再び告げてくれる
内省を超えて哲学

夜を冴えてみだるものなき網膜に鋭くもわが栽(さば)かれゐたり(時刻の中に)
<「鋭」と「刻」は旧字>
「栽かれ」ることを認識するのが「網膜」とあらば、「鋭くも」あろうことをおもう。
そも「網膜」を連体する上句にして「夜を冴えて」とのご認識であられる。
「みだるものなき」世界に、「わが」ばかりが、「みだるもの」だったのか。
その「栽き」は正しい「栽き」だったのか。
この人生を根本から揺さぶる問いかけのある夜がある。
短歌とは、孤独の寂寥も、これを哲学として人を説得できるらしい
それも「鋭く」
孤独の意味ある完成形

かへりみて凉しき立場に立つときにゆるやかにしてひろき身邊(身邊回顧)
孤独の意味ある完成形があるとすれば、ここにあるような光景か。
<わたし>に平常の鍛えのほどがうかがえる。
<わたし>に平常の鍛えがある日々を送っておいでだったことは、次の二首にもうかがえる。
ひと日外にありて刻みし吾が面輪消さむすべなくかへり來にしか(わが位相)
<「刻」と「消」は旧字>
たしかに吾れ今日に生くとう自意識のおぼつかなくて鏡に見入る(たしかに吾れ)
腕を取り戻す

先頭の一首を改めて読み返す
假寢よりさめたる部屋にたましひの寄りてとまらむ枝さえへもなし(心理のみだれ)
覚醒してみると、身の周りに、確かなものが何もない。
「たましひの寄りてとまらむ枝」とはいかにも抽象的であるが、しかし、難解ではない。
人が持つありとあらゆる感情が霧消してしまったか。
腕が空を泳ぐ。
そのような心情として、この一首は、わたくし式守の胸にしみた。
では
<わたし>は、そこでどうしたのか
めぐりめぐる世界

この歌集で、わたしはことに、次の一首を愛している。
ひとりごと洩らしつつ何の應へなき部屋に椿の紅さかんなり(心理のみだれ)
生きるにおいてご自分にいかに厳しくあろうと、<わたし>は、この「紅」なるものをすくいあげることを怠らない。
無人の世界を染めた「紅」一点は、それがどのような世界であっても、この世界の厚みを告げて、絶望を否定する。
されば、こんな歌も生み出せるようだ。
天衣かく無縫なりければいづこより打ちこまむや人間のかなしき鑿を(泰山北)
時の上に投げ託したる一さいはかへり來よ大き調和となりて(自畫像)
孤独に病む人へこの二首が届くことを願う。
しかし
「打ちこ」むことも、「投げ託」すことも、もうその力が残っていないとや。
起き上がろうと手をつく、その手にもう力はないとや。
ああ
どうしたらいいのか
単純にそれは激励

今宵ふと雜踏のなかに見いでたる吾をいとほしみ拾ひてかへる(露臺)
この一首の「いとほしみ拾ひて」の調べはどうだ。
かまびすしい周囲の喧騒は、わが身を、とてものこと妟如とさせてはおかないが、「吾」こそが、「吾をいとほしむ」絶対的な存在である。
めぐりめぐれば、「何の應へなき部屋に椿の紅」が「さかん」な世界に導くのもまた、「吾」こそではないのか。
岡山巖は、日本史の史料ともなる歌が、この歌集『遭遇』に、それも多くあるが、わたくし式守は、ここでは、時空を超えて激励された歌を引くにとどめた。
激励?
そう
激励
たとえば「何の應へなき部屋に椿の紅」がこの世界にはあること。
それを探せ、と。
ある、と。
生きよ、と。