
目 次
青春の不朽の名作として
最近に限ったことではないが、生きづらい詩が猖獗をきわめている。
が、いつの時代も、若者は、生きづらい以上に、将来への大きな波に乗り出したいと内心は期していることがあるのである。
しかし、岸から艫綱を解くのが、容易ではない。結果、岸で、ただ張りつめたロープに呆然となる。
短歌研究社の、この歌集を、わたしは、そのような青春の書として読んだ。
かなしい自覚/さびしえ

入退院の繰り返しでもあったのか。
魔物なら魔は使うほか生きられず 保険屋の利く範囲さびしえ(ミシン)
内に棲む「魔」との協調でどれだけ人生が疲弊しているのだろう。
が、そんな逆境も、保険がきく範囲でしのげる程度のものらしいのである。
孤寂な精神は、凄愴な谺を呼んだ。「さびしえ」と。
魔性ならなおさびしかり 孤独死を範囲に入れて巨峰購(あがな)う(同)
「孤独死を範囲に入れて」いるのは、フィクションではない、と思われる。
しかし、「巨峰」を食べ尽くすことはまずあるまい。
醜さをわらうこころは内臓へ流されていくサファイアのごと(同)
「こころは内臓へ流されて」いれば、精神状態は、もういっぱいいっぱいなのである。
食べられるわけがない。
されば、よし、食べなくていい。
食べなくていい。
「醜さをわら」わないでいられる、つまり、その、何と言えばいいのか、食べるサイズを、何となくでいい、認知できた時だけ食べればいい。
であれば、すこしはこわくなくなるだろう。
勇気も出せるだろう。
「サファイアのごと」が痛ましい。
胸元にきらきらひらくサファイアの傷ものゆえの外的世界(睡眠薬)
「サファイアの傷もの」を非少女と読んでみるが、深読みだろうか。
<わたし>は、今は、「外的世界」を生きているが、「外的世界」への<わたし>の理解は、すこぶる常識的なものである。
キャーキャー言うのはイケメンだけど安パイは「ノンタン」だとも分かっているわ(おしゃれキャット)
「ノンタン」は、猫に擬した平凡な男の子である。
元気な猫の男の子ノンタンを主人公とした絵本のシリーズで、1976年に最初の絵本『ノンタンぶらんこのせて』が刊行。その後、絵本はもちろんのこと、CD、テレビアニメ、キャラクター商品などでも人気を博している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ノンタン」より
「外的世界」とは、畢竟、平凡な人を基数に組み上げられていることがこれでよくわかる。
かなしさをそのままそこに

自制心を失うことの極度な恐怖に、野口や子は、自身を、仮借なく追い込む。
気まぐれを貶すのならば気まぐれに毛並みを逆立て応戦するわ(おしゃれキャット)
感覚、このうつくしきねこ髭であらゆるひとへ軽蔑をあげる(同)
しかし、<わたし>は、かなしさが常態の「外的世界」に、ありのままの自分の姿を見つける努力を怠らない。
その解決の手段が「美」であるらしい、との解釈をしても、けして軽率ではあるまい。
<わたし>はまず、少女を肯定している。
めいべりん 華やかなほど哀しくて少女らのすべらかな脚つき(マスカラ)
まだ「少女」の「めいべりん」は、舌足らずではあるが、その「すべらかな脚つき」に、<わたし>は、無垢や含羞の勝利を認める。
<わたし>にどれだけ「哀しくて」か、読む者をそれこそ「哀しく」搏つ、これは、一少女の人生に、まこと切なく美しい一首だと思う。
そして
現代(いま)は、くたびれた中高年の男性には幼女にしか見えない子が、すでにしてコスメに念入りであることがうかがえる。
それが何か? とも言われかねない空気が、この一首に、生み出されている。
少女みな薄色のシャツ、地下鉄のひかりをゆらす風つきぬける(ギター)
「薄色のシャツ、地下鉄のひかりをゆらす風」にある静謐な美しさ。
その色彩は、ひとかけらの衰弱もない。
「外的世界」の苛酷

「外的世界」の女性美は、商業でもある。商業であれば、女性美は、休止なくランクを生むであろう。
そんな「外的世界」で、苦しみを苦しみとしてごまかさない生き方の<わたし>に、わたしは、次の二首で、膝を屈して崇めるほどの価値を見る。
むかし殺めし少女の重さ運ばれてわれは押し入れにおさまりており(ミシン)
針穴の向こうに見えし煉獄をふさぎて縫いしうすものどれす(同)
「押し入れにおさまり」たる「少女」は、これを隠蔽してではない。
「煉獄」は、「少女」のままでは生きられないのである。
美は何をもたらすのか

破壊には創造よりも快味がある。
次の四首のテンポに、わたしは、凛とした「外的世界」での抵抗を読む。
そこそこに頭の回る人の意見に「モテないけどね」を付け足して、殺る(スケバン刑事)
ツイッターとフェイスブックで自己実現したる学生を現実で、殺る(同)
とりあえず端から全部殺りたきを ものしずかなるおとこを殴る(同)
いい雰囲気でお茶しておしゃべりしてるって感じのカップル、なぎ倒す(同)
闇の呪縛は、これを解くしか先へ進めない。
若者は、その成長の過程で、あるいは、「外的世界」を、知識だけで前進できないのである。
「殺る」「殴る」「なぎ倒す」こと。
精錬されない石のままの姿をさらしてみること。
あたりに血をまき散らすように。
人の血を確かめるように。
されど、履歴書に載らない、この破壊活動は、<わたし>にまだ、究極の問題を外に置いた局地戦に過ぎないであろう。
たぐり寄せれば手に入るこのかんけつな暴力、あるいは愛が欲しくて(同)
要はまだ、<わたし>は「美」を、律していない。
<わたし>は、主戦場から逃げることはできない
生きている限りそこから逃げられない
<わたし>を阻む主戦場

次の一首の声調の、「殺る」「殴る」「なぎ倒す」の声調との非常なちがいをおもう。
「母携帯」はひらがな多く送信す びっしり心配性のひらがな(風呂敷)
「外的世界」で能力以上を要求されるのは、対人関係の運命律による。
母は、この娘が、「外的世界」で適応できないとでも?
こんなにかなしい母と娘の歌を、わたしは、他に読んだことがない。
見守る前に「心配性」が発症するのであろう。
親以前に個としての発作が出てしまう親は珍しい話ではない。が、そんな親に限って、その威で、子の軌道の修正を強硬に試みる。
この歌集の<わたし>は、食べられない。眠れない。
そのことに、母はまず、正しく健全な負い目を持つべきだった。
これでは、子に、母性は円滑に流れない。
むろんそれは、親の愛でもある。また、それを分からない<わたし>ではない。
だが、その威で、親の権力に靡かせるための不当な行為にしかなっていないことがある。それを、親の方が自覚できないことがあるのである。
親子の愛は絶対である。されど、互いの理解となるとまた別の話で、それは幻想でしかない。
「ひらがな」であるらしい。
ひらがなは、女性性の文字である。
とは現代では言い切れまいが、そのような解釈も可能な文化位相はあろう。
母は、「ひらがな多く送信す」るが、娘にとって歪んだ母性はあっても、もはや少女ではなく、非少女への抵抗など銀河の果ての出来事である。
母が、「魔」との協調を阻む。
母は娘に、過保護というブレーキをかけるしかできないのである。
この最大の不幸は、娘が血に敏であることだ。
親と子が同じ血で争えば共倒れも辞さないことに知力で自制を課していることである。
親子の情ばかりはこれが負に向かえば制御がきかなくなる
余燼がいぶって次への転換がつかなくなる
わたくし式守に迫るのは、このキワドサなのである。
主戦場から遠く
自分にとってのっぴきならない願いとは何。
これまで自分の選択してきた態度は何。
自分をごまかしてきたつもりはない。
しかし、自分の、この姿は何。
何となさけない自分のこの姿。
母はわたしの何。
何?
主戦場を遠く眺めてこれを健全に評価できるのは、しかし、まだまだ先である。
桃のうぶげそよぐ世界の自転車の少女振りむきざま火炎瓶(睡眠薬)
「桃のうぶげそよぐ」時代に、すでにして、「魔」は棲みついていた。
無垢や含羞は、もう眺めるだけの時代に、<わたし>は、突入したのである。
夜に流れる

<わたし>は、眠ることができない。
食べられない人を眠らせない神のプログラムでもあるのか、食べられない人は、おしなべて不眠に苦しむ。
あしびきのながきスカート巻き込んでシーツのなかにらんらんと眼は(睡眠薬)
コンビニの深夜バイトのくちびるがゆっくりひらき朝焼けになる(ギター)
美でまず獲得されるのは魅惑であろう。
されど、魅惑は、夜に流れてしまう。そも魅惑は夜にふさわしい。
だが、<わたし>は、夜を生きたかったのか。
ちがうだろう。だが、食べられない。眠れない。
改めて、この一首を引きたい。
胸元にきらきらひらくサファイアの傷ものゆえの外的世界(睡眠薬)
惨苦も涙もないところに、美は、そうやすやすと顔を出さない。
食べられるわけがない。

食べなくていい
食べなくていい
そして
自分を評価しないでいい
あかいかたちよ

歌集中、次の一首を、わたしは愛し抜いている。
正論でもきみでも触れえぬ場所にあるあかいかたちを守りておりぬ(スケバン刑事)
「あかいかたち」は、制服の赤いスカーフのことか。
わからないが、わたしには、赤いスカーフが見えた。
あるいは、
心臓、それを敷衍して魂(とかそんなこんな)がイメージされないでもない。
が、
わたしはもっとこう、何と言ったらいいか、そう、実景が浮かんだのである。
あと唇とか?
その読みは何にしたってだ、どうよ、この麗姿は。
この麗姿に、わたしは、非少女の剛毅をおもう。
美の酵母をおもう。
夜の魅惑を、昼の風のなかにも大写しで描ける色彩にしたことをおもう。
若者は、大きな波に乗り出したいのに、逆に、奔流に足をとられてしまう。
が、しかし<わたし>は、自力で、死と隣り合わせで足場を組んだのである。
かくして、野口あや子の『かなしき玩具譚』は、わたくし式守の人生に、青春の、不朽の名作としてのこされた。