
目 次
よるべなき身に
捨てられし捨てし幾たびその果てのよるべなき身にパンツをたたむ(中島行矢)
本阿弥書店『母樹』
(千歳船橋)より
ひとりみであられるごようすである。
「パンツ」が捨てられたこと、「パンツ」を捨てたこと、数なくあるが、「その果て」に、ご自分は、まだ生きていますよ、と。
なにしろこのように「パンツをたた」んでいますよ、と。
哀切であるが、この本阿弥書店『母樹』を読むと、中島行矢は、悲嘆におぼれてはいない。
たまるほど豊かな気分にちにちを柱の釘へ輪ゴムをかける(過渡期)
この世にささふるもの

どこにいます神にしあらず伴侶なきわれをこの世にささふるものは(千歳船橋)
妻ある天への階(きざはし)あらばと、いつもあたりをうかがってでもおられる印象がないでもない。
されど、哀切ではあるが、どこか明朗な空気に包まれてもいる。
十年をへぬればひとりを意識せずせなかが痒いときのほかには(うたかたの)
むろんひるがえるかなしみは避けられない。
わたしより先になゆきそ春の夜の古冷蔵庫はをりふし唸る(丸徳運輸)
妻のため買ひにしヘルスメーターのトイレの隅にほこりをかぶる(ブルトンハット)
泉路に伴うは「妻」のみである、と決めてもおられるごようすがある。
まだ死なない

その前に立てばたちまち開くドア理由がいるさ死ぬといふなら(Woman)
この世から逃れるすべはあるのだが銀河宇宙のふくれやまざる(スキャンダル)
「その前に立てばたちまち開くドア」も、「この世から逃れるすべ」も、中島行矢は、これをけして選択しない。
天命にただ忠実
妻との時間は断ち切られたが、「銀河宇宙」は、その「ふくれやまざる」力で、いつか必ず妻と再び結んでくれよう。
愛に立つ

生きている残り時間がなくなるのを、中島行矢は、ただ待ってはいない。
おびただしき桜の落ち葉ちり敷けるひとつひとつがその母樹を恋ふ(母樹)
歌集のタイトルはここから採られた。
芳樹の麗しきも長き咨嗟のあるを描く。
そして、<わたし>はむしろ、落ち着きを得て、あたりの「母」を探す。
よーいどんその母が言ふをさな児のよーいの時のかひなの形(弓の馬場)
首根つこ咥えてわたる母猫が道の左右をたしかめてから(同)
中島行矢は、まだ生きている世界を、このように愛しむ。
すれちがう

見つめ合ふ互ひに背後となるまでを曳かれし犬と 夕暮れの街(百年橋)
「犬と」が秀逸である。
「犬」もまた<わたし>を「見つめ」た、その交感の、「夕暮れの街」が愛しい。
一輪車漕ぎはじめたる少女子のたちまち左右につばさをひらく(たましひの鞘)
「少女子の」両の腕は灼と輝いて、腕に「つばさ」を重ねる光景は、チープに見えても、実は、いつまでも記憶に残ることを教わる。
中島行矢は、あたかも四方より清き水をあつめるように、ご自分の足音を愛しむ。
ふらふらとすぐ前をゆく自転車の右を左をぬけずわが漕ぐ(のうぜんかづら)
スーパーにのこるひとつの切り揚げへ手をのばしあふこの夕まぐれ(百年橋)
次の一首は、歌集中、わたくし式守のとりわけ愛する短歌である。
垣根垣根を渡るてふてふ日曜のわがゆくところどこも込みあふ(うたかたの)
「てふてふ」は、風になされるままではあるまい。
「てふてふ」は、時なる風にむしろ舞っているのではないか。
見えない人ともすれちがう

なぐさめとまでは言はぬがスーパーへゆく度のぞくこのあばら屋を(ブルトンハット)
「なぐさめとまでは言はぬが」とあるが、これは修辞で、中島行矢にやはりやさしさがあって、と考えるのが自然であろう。
おとなりの換気扇よりにほふものこれはラーメンむろんとんこつ(しんでれらショック)
「むろん」が秀逸である。
「おとなり」に、これは、よくあることなのだろう。それはいつも、「とんこつ」なのだろう。
そして
おとなりもまた、ひとりみなのだろう。
中島行矢の世界観

中島行矢の世界観の色彩が、次の一首は、そのすみずみまで染まっている。
くもしろく遊撃手といふそのあたりグランドに秋の雨水がたまる(Woman)
「グランド」一面に、「雨水がたま」ったが、「遊撃手といふそのあたり」だけはまだ、「雨水」を離していない。
「くも」は「しろく」、また、「雨水」は「秋の」であって、これもまた、歩むこと厭くなき過程で発見したものであろう。
現在からいったん離脱して、過去も未来も包摂して、時の険夷は、これを、ものともしていない。
このスタイルが完成されたものか、まだ完成途上かはわからないが、魂の変遷がいくたりとあったことは見通すことができる。
中島行矢は、ひとりみに茫と佇むを経て、その人生に、宿命を決然と選択した。
本阿弥書店『母樹』は、わたくし式守に、散るを待つもさりげなくそよぐ桜の花に似る風格をおしえた。