
目 次
待合室
いまは亡き病人(やまうど)描きしやまぶきの黄(きい)は咲き継ぐ待合室に(長嶺元久)
本阿弥書店『百通り』
(むらぎもの)より

<わたし>=長嶺元久は、医師である。
このような医院の医師である。その人生に、このような医院を育ててこられた。
人がいま生きていること。
人に病があること。この世界に医師があること。
そして、人は、いずれ逝くこと。
この待合室から逆算して、その人生のおりおりの決定をしてはこなかった筈である。
気がつけば美しい実が結ばれていたのである。
この「やまぶきの黄」の、なんと荘厳な。
わが医院二十二周年を迎へたりカルテ番号17575(灯して眠る)
診察の順番を待つ人たちの多くが読み入る「きょうの健康」(主治医)
診る

学会のガイドラインにをさまらなぬ人をも確とわれ流に診る(「につこり」に遭ふ)
「ガイドラインにおさまらぬ」患者であれば診察できません、とはいかない。
そもそもガイドラインに載っていても、目の前の症例が、記載されている説明と完全に一致しているとは限らない。
臨床の現場で、医師が、腕を試されるのは、むしろこの不一致の場面か。
患者にとっていい医師とは治してくれる医師である。
目の前の医師が治してくれるかどうか、そんなものは、患者からすれば、はっきり言って博打だ。
されば、治そうとしてくれる医師が、結局、いちばんありがたい。
「診る」と。
「確と」と。
患者もまた医師を鑑定する。
治す気がほんとうにあるか。
どの針がいちばん痛み少なしやわが大腿に幾たびか打つ(百通り)
早飯もときに役立つこともあり診療の間に昼餉は五分(「につこり」に遭ふ)
医療と福祉と現実は

「インスリン治療をけふから始めませう」「………」「次にしますか」(百通り)
患者はむろん治療を望んでいる。だからこそ来院したのである。
だが、どの世界もそうなのであろうが、あろうことに、医療の現場で、望み通りにいかないことがある。
まずお金の現実
インスリン治療をお金が無いからと拒む人あり涙を浮かべ(灯して眠る)
国や自治体の救済措置は望めないのか。
望める事例であるが、患者は、そのあたりを知らないだけなのか。
それを知る機会さえ失われているのか。
結句の「涙を浮かべ」が哀切である。
治療を受けたいのだ。
治療を
独居生活の現実
「猫たちに餌やる人がゐないので入院出来ぬ」と媼は応へぬ(主治医)
猫だったらほっといてもいいではないか、といくわけがない。
「猫たち」と。
家族なのである。自分が生きるためにこの仔たちを死なせるわけにはいかないではないか。
そのあたりの代行サービスはないのか。
望める事例であるが、患者は、そのあたりを知らないだけなのか。
それを知る機会さえ失われているのか。
猫よ
聴く

「お大事に」言へば「実は」と切り出せる媼の話に耳かたむくる(吸気と呼気)
<わたし>は、患者に、とにかくすべてを語らせてみる。
これもまた<わたし>の治療のスタイルなのであろう。
「耳かたむくる」こと。治療のヒントが隠れていることもあるのかも知れない。
連れ合ひを亡くしし媼繰り出だす想ひ出話を終はりまで聴く(百通り)
この「聴く」であるが、「聞く」と「聴く」は、潔癖に使い分けたと思われる。
待合室で焦れている人がいないか気になるが、この医院は、この医師は、「終はりまで聴く」のである。
「終はりまで」に、読者たるわたしは、心が洗われた。
半年の余命を他にて告げられし翁の目見をわれは受け止む(むらぎもの)
半年の後に逝くことを、<わたし>より先に知った人の目を、<わたし>は「受け止」める。
余命を知る人への、これは、最上の礼儀ではないか。
「受け止む」の、この、医師というものを超えた、人間の生命への、純粋無雑な光が、わたくし式守の目に眩しかった。
眩しかった。
カルテ

ラベンダー仄かにかをるカルテありいかなる人の移り香なりや(吸気と呼気)
カルテがラベンダーの香に包まれていた。
内実はもとよりそんなことはないが、カルテ自体は、単調な反復の所産である。
下句に「いかなる人の移り香なりや」と。
これまでこの香を遮断していた何かがあった。単調な堆積の過程にひっそりと潜んでいたのだ。
この患者は
いまどこに
どうかお元気に
しかし
カルテの出番は、ほんとうは、このような場面なのである。
いかにして転移せる癌を伝へむか診て来し媼のカルテは厚し(「につこり」に遭ふ)
逝く

一年に逝きたる人ら十人の顔思ひ出づカルテを見つつ(ゆく年くる年)
それぞれの生涯を遺して逝った人たちがいる。
記憶になお残っている人たちの顔はまだカルテにある。
休まずに碁会に出でし翁けふ黄泉にてともに打つ人ありや(百通り)
当院にかつて通ひて今は亡き夫婦の屋敷に「売家(うりいへ)」の札(横紋筋)
長嶺元久たる<わたし>には、ご本人にもそうと知らないままに用意された、心の働きがおありあらしい。
この働きこそが、医師を聖職と認め得る働きである。
されば
その人生は、次のような場面に立つこともある。
家族葬なれどもわれの参列す三十年余主治医にありて(主治医)
麻痺したる足を曳きつつ患者さんが訪(と)ひてくれたり母の葬儀に(灯して眠る)
そして
つつがなく年を越せるありがたさは、余人に及ばない、より大きく、より広くもなるようだ。
いただきし新酒「ゆく年くる年」を晦日に飲むか明けてにせむか(ゆく年くる年)
除夜の鐘無料に撞きてたまはりぬお坊さんより年賀の飴を(同)
長嶺元久先生と無縁の人生の、わたくし式守も、遠く東京で、ご挨拶したい。
病に苦しむ妻の夫として。
本年も、ありがとうございました。ほんとうにありがとうございました。
忘れません。
忘れません。
誕生

トンネルをくぐり抜けたる瞬間にエコーの白きが赤ちゃんとなる(薫風)
一メートルの距離を保ちてまみえたり生まれて二時間ばかりの孫に(同)
なるほど、目の前のかわいい赤ちゃんは、「エコーの白き」に過ぎなかったのである。
ついささっきまではまだ。この目にはまだ。
「トンネル」は産道のことであろうが、たしかに産道なる「トンネル」を抜けないことには、この世界に来られない。
それが、なんと「まみえ」ているのである、いまは。
まだ「二時間」と。
長い人生の、それは、なんと短い生後か。
「一メートルの距離」で、と。
母体の中よりなんと近くにある生命か。
たしかな生命をおしつつんで、みどり児は、この世界に包まれた。
みどり児は、この先に、人生というものが待っている。
未来に
豊富な幸福を
百人の生まれ出づれば百通りの生き方のあり逝き方がある(百通り)
長嶺元久

長嶺元久は、医師である。
医師であろうとなさった。
はじまりは誰もが純粋である。
それは継続されたのか。
された。
された、と言っていいだけの作品群が、本阿弥書店『百通り』には並んでいる。
人は誰でもはじまりは純粋である。
が、厳粛な問題ににっちもさっちもいかなくなって、あるところもまでは努力をするが、いつしかその人生の舞台から降りてしまう。
咎めているのではない。おおかたはそうなのである。
ところが、この人生に、それは医師であろうと、聖職とは呼び得ない職域であろうと、積極的な希望を持って確かな足跡をのこす人はいるのである。
これで人生を終わりたくない、という人は、ここで、お手本となる人を求めよう。
このような人も世界にはいたのか、そうか、と。
長嶺元久なる医師であり歌人は、わたくし式守に、そのような歌人である。
本阿弥書店『百通り』は、そのような歌集である。
枕辺に医書と歌集を積み上げて土曜の今宵熟睡(うまい)に落ちむ(主治医)