
目 次
第1部:騒音と音楽のあいだ

メロディもリズムもない音楽がある。
ただ打楽器を打ち鳴らしているだけとか、演奏には聴こえない金管楽器の音とか。これが「芸術」だ、と言われたってなあ、と筆者(わたくし式守)などは思ってしまうのである。
しかし、専門家に認められていることもある。ショービジネスで成立していることもあるのである。
必然性が認められれば。すなわち、それは騒音ではないのだと。
必然性のない破調と必然性のある破調
音楽の歴史は、新しい響きを探求する、その繰り返しでもある。
(私的解釈です)
短歌だってそうなのではないか。
新しい韻律を、そして、その試みによってどんな抒情が生み出されるか、その必然性を探求する歴史の先に、現在の短歌があるのではないか。
(わたくし式守のおつむではそうなっている)
水仙の白い花に……

水仙の白い花に今朝も愛の挨拶をしましたこの感傷は誰にも言ひません(武藤雅治)
桃谷舎『あなまりあ』
(ねむつたまま箸をにぎつて)より
この一首、一言、おもしろい、と思うのであるが、明らかに破調である。
これを、定型に収めて詠もうと思えば、不可能ではないのかも知れない。達者な歌人であれば、これと同じ抒情を定型で生み出せるのかも知れない。
でも、5・7・5・7・7に改作することによしや成功しても、筆者(式守)は、もうこのカタチでしかおもしろく読めないだろう。
はさまれた“です・ます調”の散文が定型の境を極めている。
自制心を無視せざるを得ない内なる声が聴覚的な訴えとして耳に残る。
これを「朦朧体」と呼ぶ
この歌集『あなまりあ』の「覚書」に、著者・武藤雅治氏ご本人は、こうおっしゃっておられる。
(前略)
十数年まえ(この歌集の発行は2016年5月である(註・式守))から、「朦朧体新定型」、あるいは、「みそふたもじ短歌」と自称する作品を、断続的に詠んできた。黄金律の「定型」に並行して、ひそかな実験的な思いをこめて
(後略)
定型を拒否する/愛の挨拶の秘密を守るため
読み返す。
水仙の白い花に今朝も愛の挨拶をしましたこの感傷は誰にも言ひません
「愛の挨拶」なんて修辞のなんと大仰なこのムード。
で、「水仙の白い花」とは、恋人とか妻のことか。あるいは愛人(愛人はないな)か。
でも、ほんとうに「花」なんじゃないの、と思えるのである、筆者には。
これは自分だけの秘密の儀式。つまり、恋人にも妻にも、あるいは愛人(愛人はないな)にも言わない。
秘密。ヒミツ。
「誰にも言ひません」と。
この修辞は、秘密性を高めて神秘にまで昇華する手当てなのではないか。
秘密の儀式を音楽として
エルガーの「威風堂々」を想起させる優雅な響き。
人間相手ではなく「水仙の花」という静物に、あるいは自分だけの小宇宙に向けて、武藤雅治は、愛を放ったのである。
言語の大仰さ。なのに行為はこの密やかさ。
このギャップ。
結果、この歌は、聖なる儀式へ昇華していないか。
朦朧体という短歌の破調の成果
定型というはっきりした枠組みに言葉を押し込めない。
これは短歌であるとの輪郭をあえてぼかす。
短歌の破調の音楽性の外に、名前のつけられない感情(それはたとえば「感傷」と呼ばれるもの)が、これまでに聴いたことのない音を響かせた。
<わたし>は、「水仙の白い花」を対象として見ているのか。
あるいは、花の中に、人間を超えた存在でも見ているのか。
その境界は「朦朧」としている。
朦朧としていることで、水仙の白い花への愛の挨拶は、敬虔な祈りのように、読者たる筆者(わたくし式守)に響いた。
そして、つかまうとする蔓のさき

つかまうとする蔓のさきに空があることも海があることも知つてゐるさ(武藤雅治)
『同』
(暗い路をならんであるきながら)より
これを、定型に収めて詠もうと思えば、不可能ではないのかも知れない。達者な歌人であれば、これと同じ抒情を定型で生み出せるのかも知れない。
でも、5・7・5・7・7に改作することによしや成功しても、筆者(式守)は、もうこのカタチでしかおもしろく読めないだろう。
「蔓」への執着と「蔓」の先の虚空
読み返す。
つかまうとする蔓のさきに空があることも海があることも知つてゐるさ
蔓が何かを掴もうとする行為、これは、生きるための本能であり、また生への執着。
しかし、その伸ばした先は、掴めるもの(たとえば支柱)ではない。「空」や「海」という、到底掴みきれない巨大な虚空なのである。
「水仙」の歌は内向的な「秘密の儀式」だったが、この一首は、外の世界、あるいは、手の届かない到達不能な世界である。
されど、<わたし>は、蔓に、まっすぐな視線を向けている。
そして、
それでおしまいではないようで……
「知つてゐるさ」の寂寥と矜持
読み返す。
つかまうとする蔓のさきに空があることも海があることも知つてゐるさ
結句の「知つてゐるさ」、これが絶妙に、この一首に合っている。
「さ」なんて言っておいでだ。
口語の「さ」、この一音には、淡い諦念が響いている。が、それでもなお己を伸ばし続ける。
諦念に矜持が、矜持に寂寥が。
「さ」一音は、音楽のコードなのである。
口語とは、音一音の斡旋によって、感情が幾重にも層をなすものらしい。
蔓はその丈を伸ばしても、そのさきには何もない。ただ空があり、海があるだけだ。
この一首には、そう言ってよければ、報われない結末が待っているのである。
<わたし>なる武藤雅治さんは、それを知っているのに、どうしても蔓に視線を向けないではいられなかったようだ。どうしても視線をそらすことはできなかった。
この一首の音楽性は美しい。
文語定型と口語の破調
実力の裏付けもなく、ここで、上の一首の下句を、文語定型にしてみる。
(改作)
空あり海のあるを知りたり
ぬぁんてあたりになろうか。
つまんないの。
「水仙の白い花」でご自分だけの聖域を守り通す武藤雅治は、「つかまうとする蔓」で、広大な世界に無力な個を口語の破調で描いた。
武藤雅治さんの『あなまりあ』は、何も正統な定型への反逆ではないのである。
音楽で言えば、なぜその音でないといけないのか必然性がある。
音楽で言えば、知識もなくそうしたわけではない文脈がある。
第2部:破調の更地にアフォリズム

アメリカにジェイムズ・エルロイあり。
特に『ホワイト・ジャズ』。あの叩きつけるような断文。
こんな具合だ。
ぐるぐるまわって、落ちる。
音楽。
闇/光/痛み――腕に注射、狂ったような至福。光=視線――目を取らないでくれ。
ジェイムズ・エルロイ風に語りたくなった一首について以下……
ジェイムズ・エルロイと朦朧体
定型は時に破られる。
鴉が笑う。黒い基督となって俺を見くだしていやがる。
定型のリズム?
そんなもの東京湾のドブに捨ててしまえ――

われを見くだす位置にゐるあの鴉のやらうは黒い基督のやうではないか(武藤雅治)
『同』
(なにかが爆発する恐れに)より
鴉の濡れ羽色を「黒い基督(キリスト)」に見立てた。
が、<わたし>がそれを見上げているとは詠まない。「われを見くだす」と捉えるのである。
武藤雅治さんに憧れの花が咲くのは、このような視線の力である。
この一首の不穏でしかし高潔なイメージが、定型の31音におとなしく収まっていては、むしろ不自然だろう。
エルロイはなぜ主語や接続詞を削った。LAにおける混沌と強迫観念を表現するためだ。
われを見くだす位置にゐるあの鴉のやらうは黒い基督のやうではないか
この歌の破調も、鴉(基督)に対面した時の心のざわつきや、リズムが乱れてしまうほどの衝撃を、そのままパッケージするべき必然があった。そのためのこの意匠であった。
ジェイムズ・エルロイからニーチェへ
エルロイはLAの闇を暴くために文体を切り刻んだ。
先の一首もまた、真理を際立たせるために、定型はあえて捨て去ったのである。
さて
武藤雅治さんが、破調を選択した姿勢は、既存の道徳をハンマーで打ち砕いたニーチェの孤独な戦いとどこか共鳴していないだろうか。
ニーチェと朦朧体

あつちからみればめざはりのえだもこつちからみればなくてはならない(武藤雅治)
『同』
(ひょつこりといましかがみのかたすみに)より
反対位置に立つことで価値が180°反転した。
「リズムの解体」が思考を促す。
5・7・5・7・7が心地よいのは、脳が、定められたリズムに身を委ねて安心できるからである。
(わたくし式守のおつむではそうなっている)
が、この歌がしようとしているのは、「揺さぶり」である。あえて定型を破ることで、読者の脳は、一瞬「おっ?」と思考が止まる。
この一瞬にアフォリズム(鋭い洞察)は流し込まれるのである。
定型に沿っていないのは、思考を更新再起動させるための装置。
定型のエラーではない。
定型のカスタマイズ。
歌の抒情と哲学の幸福な出会い
ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、哲学書であり、かつ壮大な詩でもある。
いかにも論文らしい論文を書いておけばいいものを、ニーチェは、アフォリズムを多用した。
既存のスタイルなど、ニーチェにとっては、そこでほんとうに言いたいことを死なせてしまうのだ、とでも言いたげに。
読み返す。
あつちからみればめざはりのえだもこつちからみればなくてはならない
「あっち」と「こっち」という日常的な言葉だけで、宇宙の真理のごとく詠めてしまうのである、武藤雅治さんは。
理屈(ロゴス)のはずが、一読すれば、寂寥という「詩情(パトス)」を残す。
これなのである。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』が哲学書でありながら壮大な詩でもある所以の魅力と通じてはいまいか。
武藤雅治/朦朧体
エルロイがリズムを叩き壊したその更地に、言葉そのものが持つアフォリズム(鋭い洞察)のニーチェにご登場していただいた。
かくして、
短歌が他ジャンルと境界をなす定型に、武藤雅治『あなまりあ』の「朦朧体」は、歌の新しい響きを聴かせてくれた。
エピローグ:忘却

毎晩死んで毎朝生き返つたみたいなもので逆行性健忘症症候群と呼ばれ(武藤雅治)
『同』
(このほしにこわれないものはないが)より
なんて美しい。
これはもう毎日が脱皮ではないか!
毎朝、この世界に誕生している?
健忘症? 毎日だ?
されば、毎朝、昨日の自分を忘れられる。重荷は捨て去られて、誰が決めたのか定かではない道徳に縛られることから解放されようか。
忘却。
過去の怨念(ルサンチマン)から自由になって、忘却は、今この瞬間を肯定するための聖なる能力になる。
「朦朧体」?
これは遊び半分で壊された韻律ではない。
ニーチェは、既存の価値観を破壊し、自ら新しい価値を創造する者を「超人」への途上にある者として称賛したが、定型という安住の地を離れて、独自の韻律で毎日生き直している<わたし>の姿に、筆者(式守)は、圧倒された。
エルロイだったらどう言う。
おい、『逆行性健忘症症候群』だって?
定型ではない? 破調というのか?
くだらない。
そうともならないか。
毎晩死んで、毎朝地獄から這い上がってくるような男の呼吸が、5・7・5・7・7なんてお上品な拍子に収まるかっての。
昨日までの罪、女の顔、全部忘却の彼方に放り込んで、新たな朝の光の中で、今や何も残っちゃいないのである。
医学用語(症候群)なんて冷徹な言葉を、感情の渦の中に無理やり叩き込む、この「朦朧体」を、もっと多くの人に知られないのはあまりに惜しくないか。










