
目 次
日常に無邪気な顔を見せること
六花書林『鶫』は、とことん私生活でしかない。
その私生活に、しかし、人は、人生的なテストを折々受けざるを得ないことが描かれていて、わたくし式守は、そこに、なにか敬虔なおもいを持った。
飽きることなく繰り返される、この平凡な暮らしに
しかし
作者・武藤雅治は、常、飄々としておいでである。
たとえばこんな味わいです

雌雄のありて実のなる南天とをしへてくれし植木屋のひと(足の小指)
アタリマエの話ではないか、とはならないのはなぜ。
「植木屋」にこれは貴重な話が聞けた、となってしまうのはなぜ。
たのしい。
それ以外の言葉が要るだろうか、と思うほど。
夢をみてゐたかもしれぬタマネギは発芽するまで冷蔵室に(線香花火)
おお、そりゃあもういい「夢をみてゐた」ろうね、となるのはなぜ。
だらしない保存だったからでもないのに、タマネギは、芽が出てしまうことがあるのである。
タマネギの芽に毒性はない。
「われ」はときどき切り離されて

足裏がふたついそいそ逃げてゆくおのれの影を置き去りにして(八月晩夏)
口笛をみじかく吹けば一陣の風のごとくにわが影はくる(白いきつね)
自分から実体が遊離する体感は、人に、誰でも覚えがあることだろう。
実体が「影」より速い、との印象を受けた。
実体がちょっと油断してしまうと、別の「われ」は、すぐ迷子になってしまうようだ。「口笛をみじかく吹」いて、呼び戻さないと。
そして
腕時計そして眼鏡をはづすとき静かにわれはわれを離るる(うさぎ)
人はいつでも試されていて

もくてきをもてとさとしておきながらもくてきもなき石ころがすき(白いきつね)
などと詠むのは、ご自身が「もくてきもな」く人生を生きられないことへの悲嘆だろうか。
愚人に還れ、とか。
されど、人は、愚かなことの繰り返しなくせに、いざ愚人に還ろうとすると、これでけっこう頭を使うようでして……。
もうすこしもつともつとと納豆がかきまぜてゐるオレをはげます(大の字)
全力で立つてゐるのがわからないあの鉄塔の身になりたまへ(青空)
結局、こうである。
結局、このセンスで生きてしまうのである。
このように生きない人もいるが、<わたし>は、そうはなれないらしい。
なんてことはない。「鉄塔」は、<わたし>だった。
人が人たれば、基本、「全力」を出してしまうことはままあって、ついては、その「全力」に何かしらの意味を問う。
次の一首もまた……。
草にふる雨をながめつ いささかの覚悟であらばなきこともなく(なめくぢら式)
「草」がいい。
若く輝く唇を割る花を「ながめ」たのであれば、「覚悟」なんか経ないのである。
遠くより歩み寄る雨が細かくはらはらと音をたてている
「もくてきもなき石ころがすき」なひとびとの、これは、主旋律だった
人生と死後との交差判定

アパートの二階の窓のすきまより手招くやうな白いカーテン(こんなところに)
使はなくなりつつありし電話機が深夜に一度鳴ることがある(悪夢)
持ち主のわからぬ傘が玄関の傘立てにあり濡れてをるなり(足の小指)
今生きている時空とは別の時空はある、として、それを、死後の世界、との想定をしてみるのはどうか。
死後の世界から「手招くやうな白いカーテン」
死後の世界から「電話機が深夜に一度鳴る」
死後の世界から「傘が玄関の傘立てに濡れてをる」
そして
次の一首は、死後の世界に、とうとう足を踏み入れてしまったのだろうか。
北口と南口とがあべこべの略図であればマンションはある(ある意味)
夫婦の休憩

押し入れの奥もさがして戸袋の奥もさがして妻の留守の日(葉隠れ)
やった、いないぞ、となったのかなあ。
なんだ、いないや、となったのかなあ。
どっちの読みでもおもしろいと思う。
どっちでもあるんだろう。
れんこんの穴からさきの人妻の主婦の女性(をんな)の母親(はは)のさみしさ(笑ふ会)
わたくし式守の、この一首は、ことに愛している一首である。
食卓にあるご夫婦のすがた。
「をんな」とか「はは」とか、その総体に、「さみしさ」が及んでいるのだろうか。
そのような歌ではないと思う。
妻がここにあることに、万斛の珠が鳴る谷間を覚えたのだ。
わたくし式守は、そのように読む。
<わたし>に、歌集『鶫』にある、これだけの眼光を獲得させたのは、人生に、この「をんな」がいたことによるものが多だったからではないか。
一瞬で千万無量のおもいが起こるだけの時間を、おふたりは、ともに過ごしてきたのだ。
なんとまあしあはせさうに歯をみがく家人のかほをかがみにのぞく(足の小指)
花はまだ咲いている

ひと夏を咲きつづけたる槿の木 九月の空になほ花をつけ(笑ふ会)
「九月の空」なのに「なほ花」がそこに貼られることの、<わたし>に、うれしいようすがよくうかがえる。
武藤雅治は、死後の時間もカウントなさっておいでのところがおありだが、では、花を、武藤雅治は、いつまで咲かせていられるのだろうか。
樹を抱き樹に抱かれていつぽんの樹になりたくてこの森のなか(五勺)
人生の屈曲点

この世界を、この世界に生きる一人として、武藤雅治は、常、その時間を慈しんで生きている。
そうとも思わないではいられない短歌が、『鶫』に、いくつも並んでいるのである。
六花書林『鶫』で、武藤雅治の人生には、この世界とこの世界を生きる人間の美質を求めるこころが途切れることがなかった。
武藤雅治氏は、その人生の、どの屈曲点でも、ご自身の感性を守り抜こうとしてこられたに違いない。
自覚してか、あるいは無自覚でか。
いずれであっても、ご自分に、常、それを課してこられたのであろう。
それが、読者に、たとえばわたくし式守に、一首、一首、されどたのしく届けられた。
六花書林『鶫』は、わたしにおいて、都度、歌集を読むよろこびを満喫できる。
武藤雅治氏は、深く韜晦して、実は、自律の人である。