松村由利子『大女伝説』「角度」永遠は角度によって決まる

短歌の角度

一心にミルクを注ぐ幸いよ永遠はその静けき角度(松村由利子)

短歌研究社『大女伝説』
(真珠考)より

これはフェルメールの『牛乳を注ぐ女』だろうか。

次の二首にはさまれている。

フェルメールの女は真珠「健康」という誕生石の言葉思えり(同)

フェルメールのパン密なれどバタつけぬままに農婦は咀嚼するらん(同)

牛乳を注ぐ女

牛乳を注ぐ女(1658年)
45.5x41cm/油彩 カンバス
アムステルダム国立美術館

松村由利子の『大女伝説』は、既に記事にした。

当記事は、この姉妹編になります。

真珠

「一心にミルクを注」いでいるのが、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』に限った話でもあるまいが、「一心にミルクを注」ぐ姿を改めて眺めてみることで、この世界の、これまで見過ごしていたことが、その見過ごしていたことが何かは人それぞれであろうが、ある角度をとって、新たに見えてくることがあるらしい、とは思った。

フェルメールの女は真珠「健康」という誕生石の言葉思えり(真珠考)

鉱物は、光学的性質がある。
光が、反射、あるいは屈折する。
すなわち角度を持っている。

この一首にも「角度」があるわけだ。
「誕生石の言葉」であるとないとを問わず、「角度」があることを、この一首にもおもう。

角度

一女性の顔の角度によって、「真珠の耳飾り」が、目に入る。
それをもって健康の指数の、確かなことは言えまいが、貧困を免れてはいよう、と見通すことは自然かと。

真珠の耳飾の少女

真珠の耳飾りの少女(1665年)
47x40cm/油彩 カンバス
ハーグ マウリッツハイス美術館

咀嚼する女たち

フェルメールのパン密なれどバタつけぬままに農婦は咀嚼するらん(真珠考)

「パン」は「密」なんだそうな。

『牛乳を注ぐ女』の卓上はびっしりパンがあることを目にとめての「密」なのか。

そうじゃないな

結句の「咀嚼する」からして、これは、「パン」の個々の硬さのことかと

バタつけぬまま咀嚼がまた何だかなあだなあ

また、この一首は、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と2首で1組ではあるまい。

「咀嚼する」のは「農婦」である。「ミルクメイド」ではないのだ。
まして、「真珠」を首飾りにするご身分でもあるまい。

自覚あってかどうか、<わたし>は、階級差、男女差、そのような差に敏であることが、この一首でもうかがえる

多くの女たちが、このように食を摂って、営々と生命が営まれてきたことを、この一首で、しみじみ思うことになる。

なるほど

健康

永遠

真珠→咀嚼→健康

真珠はほっといても光る。
光るように創造されているんだから光る。

「健康」だとか何だとか、「石」については、旧約聖書や神話にもあるが、「咀嚼する」方がずっと健康性が高かろうに。永遠性を保証できように。
とは言わない約束か。

再び二首を並べてみたい。

フェルメールの女は真珠「健康」という誕生石の言葉思えり(真珠考)

フェルメールのパン密なれどバタつけぬままに農婦は咀嚼するらん(同)

末梢神経で感知し得ない角度

真珠は、それを光るものにするだけの、複雑な、あるいは単純な角度があるのである。

ここで、先頭の一首を読み返してみたい。

一心にミルクを注ぐ幸いよ永遠はその静けき角度(真珠考)

この一首の「角度」は何。
しかも「永遠」の「角度」。

「ミルクを注ぐ」の「注ぐ」の、その角度のことか。
「ミルクを注ぐ」女性の実体の、その角度のことか。

そんなことは知らん

その角度は百人百様で、その角度次第では、「永遠」を感知できる。

松村由利子は、フェルメールに、「健康」を感知して、ここに、女たちの「永遠」を眺めた。

それも「静けさ」を伴って。

かどうかは知らないが、わたくし式守は、そのように眺めるに至った。

女たちの永遠

・女であることを負って生きて「一心にミルクを注ぐ」こととか

・女によって「真珠」の有無があることとか

・「真珠」の有無によって健康性の指数は変わることとか

それは角度によって、であるが。

角度

それは、一つには、『ミルクを注ぐ女』を鑑賞する者の心の角度でもあろうか。

それは、人生に大きな主題をもって、かつほとんど観念なものに抒情をもちこめる松村由利子の心の角度もまたその角度の一つなのではないか。

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