
目 次
身の不平が動機ではない詩情
この国は、悲劇を容認しない。
悲劇も神の思し召し。
そのような概念を、この国の歴史は、西洋から輸入しなかった。
そこで、日本人は、悲劇に、精神的な美を探すことにした。
すると、そこに、虚飾の出現が伴ってしまったのである。身の不平が動機の物語に美は存在しないであろうに。
ながらみ書房の、この歌集で、わたしに、そのような失望はなかった。
咲くばらはガラス

この歌集の<わたし>は、腎臓が病に侵されている。
身のうちにガラスのばらの咲くやうな血を濾しにつつ保つ命は(こころ艶めく)
「ばらの咲く」ではない。「ガラスのばらの咲く」である。
透析における血の循環に、虚空のふるえる声が生まれた。
立ち葵瓶に咲かせてわたくしの咲き登るべき空の見え来ず(浅黄の空)
われを乗せ軽くなりたるブランコの夕焼け空に吸はれゆくべし(石けづる音)
広大な空が、風が、颯々と<わたし>の身辺を払う。
天を向く

西にゆく日にささやかれチューリップ三つひらきてみな淫らなり(脳外科病棟)
山あをみ蟻の遊びのごとくにも鉄塔のぼりゆく工夫たち(卍ともゑ)
「淫ら」に、「蟻の遊びのごとく」に、<わたし>は、生々しい地上の生命があることを確認する。
それは、現実の中に、あたかも啓示を求めておいでのごようすである。それも切実に求めておいでのごようすである。
ゆりかもめ飛び交ふ下のくさむらに忍びのごとき風の来てゐる(風の尾をかむ)
泥水の倒しゆきたる葦むらの立ち上がりたり鮎もどりこよ(蜂の出で入る)
空と川に、鳥魚の去来がある。
この身は、腎臓が病に侵されていても、世界は、たしかにうごいているのである。
たったいまも生きている世界を身に巡らせて、<わたし>のからだを、どうか血が駆けていますように。どうか豊富な幸福に満たされていますように。
逢ひたい人は

時の辻は無数の泣き別れがある。
<わたし>も、人恋しさばかりは、おおいきれない。
さみだれに濁れる水のひたすらに流れながれて人と逢ひたき(逢ひたひ人)
私のからだきりきり刻んでよ燃え尽きてはや行き止まり道(同)
もののけの風が吹くらし南天の赤実ぐらりと傾く見えて(風の尾をかむ)
遠くに去った人を恋しと身をもむ。
胸の奥処に埋めていたつもりの、これは、誰にも覚えがあることではないだろうか。
ただ、ここでの「人」は、夫のことではないようだ。
「濁れる水のひたすらに流れ」る先に「行き止まり道」を見通すのである。そして、ここにある理性と感情の不均衡は、疾風ごときで、破ってはくれないもののようである。
かげろふの影ほそくなり入りつ日に去り行く夏のおもかげ追はず(飛竜の滝)
風の尾をかみつつ鴨のわたる夜を今われのみが取りのこされて(風の尾をかむ)
「逢ひたひ人」は、あえかな節操に抱まれて肌を照らす埋み火となった。
夫の眼

錯乱の夫の眼はどんよりと底力ありわれはたぢろぐ(さくらの実)
いや果ての逢ひと心に刻みつつ柩に寄ればとりみだしたり(あふれ出づる菊)
「たぢろ」いでしまう夫と「とりみだ」すだけの契りの深さがあったのである。
道徳の是非はここで詮無い話だろう。
この一瞬の、寸毫の功利もない、それゆえに高い価値を、わたくし式守は、ありがたく受け取る。
それでも詠う

<わたし>は、ご自分を、ひとかけらも美化しないのである。
こうなるともう思慮ではなかろう。
時の勢いは、病の身を圧しつつも、しかし、これを返そうとする。
それだけの力がまだあるとも思えないのに。
青き蛾となりて眠れるわが影のかたはらにたれか人あらしめよ(梅花かをるな)
「青き蛾となりて眠る」のである。
そして
いづこより来たともなくてひとり寝の朝の光のなかに猫をり(春だから)
冷たい朝に、「猫」が、<わたし>の目に温かい。声なき声の潮に、この「猫」は、あまりにせつない。
一隅のはかなさ

これの世の薄らあかりに身をかがめ犬のメリーは死にてをりたり(半夏生)
夜が明けても、人の世界は、どこかに無限の深い闇がある。
わたしは、この一首を、「朝の光の中に猫」と呼応する一首として読んだ。
「死にてをりたり」が、胸をつきあげる。
「薄らあかり」とは詠んでいても、それは、<わたし>の心が与えた「あかり」ではないか。
「朝の光」のような光を心に映すまでの力は失われてしまった。でも、まだ生きようとする力は、せめて「薄らあかり」を感知し得た。
そのように読んでみたのである。
寒き夜も手を広げゐる八つ手葉に白き雪ふる忘られなくに(同)
こんなにかなしみにぬれている緑を、わたしは、他に知らない。
歌集というものは、小説よりも、そのかなしみの層が幾層もあるのか
人の世界は、その筋立てを説明できないかなしみがある。
食卓に顔を埋めるように両の肩を泣きふるわせて、痛みに耐えている人生がある。
これを救済する力などない読者たるわたしに、香山ゆき江なる歌人は、人の未来の、その先の、ずっと先の先まで誰かを愛することの歓びと価値をつなげた。