川崎あんな『あんなろいど』美しい一刀三礼の精神で造形する

これだけの存在感の理由

風を遮るものとてなく丘のうへ吹きつさらしに花はし傾ぐ(川崎あんな)

砂子屋書房『あんなろいど』
(ふらくたる)より

<「遮」は旧字>

吹きつのる風にシャツがふくらんでふるえている姿が目に見えるようだ。
縹渺として味がる。
慷慨な調べがある。

着々とこの道を生きた。そうも思える存在感がある一首だ。

事実、着々とこの道を生きたことで発足し得た世界なんじゃないのか。

造形には工程がある

川崎あんな『あんなろいど』美しい一刀三礼の精神で造形する

この世はなべて造られているものらしい。
との生な歌は、歌集中のどこにもないが。

歌集名の『あんなろいど』は、アンドロイドを基にして、と考えるのは、不自然ではあるまい。
されば、ものの造形に歌が研がれている、との感触を得たことに不思議はないのか、と。

造形には工程というものがある。
もとよりそれが順序である、としての話であるが。

靈園のぱあきんぐえりあ先んじて石やは停めし輕トラックの(ひがんゑ)

新しくお墓を据ゑるそのための墓石積まれ小高い丘に(同)

この二首は、それ自体で抒情を覚えられるが、ものには工程がある、その理屈のはじまりにまず引いてみた。

造形に適した間

川崎あんな『あんなろいど』美しい一刀三礼の精神で造形する

ところが、<わたし>の工程で、となると、ここまでするのか、と讃えたくもなる工程があるのである。

足引きの山の稜線なぞりつつ竟に疲勞はせしゆびさきは(盂蘭盆會)

花の向き直し遣りてもふたたをみたびを傾ぐはなの向きを(ふらくたる)

まことに緻密に造形なさるのである。

ものについて、それは、この世に造形されているもの、についてのことであるが、『あんなろいど』の<わたし>は、<わたし>にだけ持ち得る間でもあるかのフシがあって、わたくし式守は、『あんなろいど』を読み返せば、都度、その間につい注視してしまう。

げんじつがそのまま暗喩だとしたら其れはもうなめらかな出入り口(種々之歌 二十四)

「石やは停めし輕トラック」を詩として感受できるのも、この間を計る術を会得しておいでだからではないのか。

わたくし式守がそれを造形と呼ぶところのものに、『あんなろいど』の<わたし>は、あたかも一刀三礼の精神がうかがえる。
「疲勞はせしゆびさき」にも、「花の向き直し遣りて」にも、それを怠ることはついに見られない。

しづかなる水面に敢えて差し入れしひとさしゆびのはつかなる反り(種々之歌 二十一)

見られず、故に、<わたし>の人生に、この式守は深い味わいを、常、持てるのである。

まずよく観察する

川崎あんな『あんなろいど』美しい一刀三礼の精神で造形する

あらくさのちひさなるはな見つゝゐて花束になるまでの思案の(種々之歌 九)

いい歌だなあ。

たとえば駅の券売機で、切符を手にすることの、券売機の中身はどうなっているのか探る人などそうはいまい。

中の仕組みなど知らないでも科学的に進歩したこの世界で、人は、生きていけるのである。

ところが、<わたし>は、となると、「花束」が「花束」になるまでを「思案」するのである。
そして、それは、「思案」であって、ものを知ることとは異なる接近である。

室溫に忽ちのうちににごりゆく波留室なりし視につゝゐにき(種々之歌 五)

<「視」は旧字>

「視につゝゐにき」に衝かれる。

気がついたらにごってたじゃん、なんて程度ではないわけだ。<わたし>は、「にごりゆく」過程をおさえておられるのである。

はじめての驛と思へる幾たびも降り立ちし此の驛にししても(種々之歌 六)

視覚と記憶が一致していない体感は珍しい話ではない。

俗に気のせい、と言われることもあるし、めったなことを口にするものではないが、病の位相でそうなることもある。

この一首はどうだろう。

「はじめての驛と思」っても当然の変化が現実にどこかにあって、<わたし>に非凡な、緻密な観察によって、「はじめての驛」が感知されたのではないか。

観察
それも非凡な

敷妙の枕にふかく在る祕密さぐりてもさぐりても只のまくら(種々之歌 十六)

ろおずまりいいつもはそれと氣付かずに通り過ぎにきけふは氣づくを(種々之歌 十一)

美しさは隠れない

川崎あんな『あんなろいど』美しい一刀三礼の精神で造形する

さをととし以来のことと山梔子(さんしし)のはなのつぼみはふくらみながら(種々之歌 三十五)

この一首もまた、あらなつかしいわ、なんて程度ではあるまい。

あたかも「山梔子(さんしし)のはなのつぼみ」を辛抱強く待っていたかではないか。

『あんなろいど』の<わたし>は、ここがどこかもわからずに蹌踉と歩くお人ではないようなのだ。

道を無駄には歩まない?
違うな。
無駄かどうかで言えば、むしろ無駄ではないか、日々の暮らしの効率の観点からすれば。

この世界は、本来は、どこにも奇態なものなどない世界なのである。

このごくごくアタリマエの真理を、川崎あんななる歌人は、『あんなろいど』で、ほんとうは特殊なことなど何もしていないのに、世間的には常識の範囲の外を歩むことで、この世界の、再読に耐える点景をきりとる。

たしかあの角を曲がれば見えて來るこでまりのはなは白く咲く家(種々之歌 二十九)

リンク