加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

加藤克巳の韻律

酔ひみだれ一人は暗き海にくだる弱小なり人間の後(うしろ)かげ(加藤克巳)

短歌新聞社
加藤克巳『玄青』
「エスプリの花」抄
(灰色の空)より

加藤克巳の韻律は独特である、との趣旨の評を、加藤克巳を調べていると、多く読む。

その評を、ここにいちいち引用しないが、事実、この一首も、その独特にあたるかと。

こんな具合

酔ひみだれ(5音)
一人は暗き(7)
海にくだる(7)
弱小なり(6)
人間の後(うしろ)かげ(10)

ところが、この一首は、まだかわいい方なのである。こんなもんじゃないのがある。

今回、この稿に、こんなもんじゃない方を引いて、たとえば短歌史の上で踏み込むまではしません
加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

加藤克巳が目で追う人

先の一首に通じてもいようが、たとえば、次の一首。

触れればひとかなしみにかくれゆき追ふすべもなく 夕雲のふるへ(同)

「螺旋階段」抄
(陰翳図絵)より

酔ひみだれ一人は暗き海にくだる弱小なり人間の後(うしろ)かげ

先の一首も改めて引いて並べてみた。

<わたし>は、人を、誰かを特定してではなく、人というものを、このように眺める。

人への慈しみがある。
ご自分に負い目を持って。

負い目を持ついわれなどなかろうに

そして

これがまた、人相手だけではないのである。

稚(わか)き蛇水(み)の面をすべり逃げてゆく逃げゆくものはなべてかはゆし(同)

「エスプリの花」抄
(灰色の空)より

かくしてわたくし式守、加藤克巳短歌を、もっと、もっとと読むことに

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

加藤克巳の生きている世界

摩周湖の幻想といふ絵の前に鞄をさげてたちてゐたりし(同)

「宇宙塵」抄
(冬の歯車)より

「鞄をさげて」いるところに、歌のなかで、<わたし>の肉感を覚える。

摩周湖は現実にある湖であるが、美しい、とされているし、また、幻想的などと謳われることもある。しかし、摩周湖の幻想の前に、<わたし>は、どこまでも生活人なわけだ。

湖(うみ)のほとり青の光につつまれて神はしだいに遠のきたまふ(同)

「宇宙塵」抄
(宇宙塵)より

こんどは実際の湖です。

加藤克巳に、これは、実景ではないか。
青の光も神が遠のく体感のあることも。

神が遠のいて、青の光に、<わたし>は、つつまれたままだったろうか。

<わたし>が青の光につつまれると、神は役目を終えて、青の光は、そのまま消えてしまったろうか。

そんなことは知らない

が、どっちでもいい、としたくないものが、わたくし式守にある。

なぜ?

この世界に石の深い寂寥が

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

空気の中石のありたるそれだけの石と空気の存在である(同)

「球体」抄
(ムンクの歩み)より

加藤克巳の、わたくし式守がとりわけ愛している一首である。

この国をこの国にしている寂寥を覚える。

とまどいがある
加藤克巳の
哀傷が見える

石たちが青のほのおをあげるまで朝の空気は冴えかえりいる(同)

「同」抄
(同)より

硝子戸のにぶき光をのむごとく机に冬の石一つあり(同)

「宇宙塵」抄
(宇宙塵)より

青のほのおは、加藤克巳の目に、たしかにあがっていたのであろう。

また、硝子戸のにぶき光を石がのみこんでいるところが、加藤克巳の目に、たしかにあったのであろう。

石の確かな存在がここにある。

されど、と同時に、これだけの寂寥は何。

寂寥

この国の時勢につれた文化の変遷が微塵もない。平安期の文学ではアタリマエだった深い寂寥そのままではないか。

とまどいがある
加藤克巳の
哀傷が見える

現代に工具があるということ

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

湖(うみ)も石も、この世界の、あるいは人間の原風景である。

しかし、加藤克巳は、次のような作品ものこしておられる。

鉄切鋏の不逞の意志の力のはてのじつにしずかなきびしい分離(同)

「球体」抄
(楕円)より

太い釘まっかな錆を打ちこめばかくれた力がよみがへり来る(同)

「宇宙塵」抄
(天の深みに)より

さて、ここに、先の、「湖(うみ)」の一首を引いて並べてみる。

湖(うみ)のほとり青の光につつまれて神はしだいに遠のきたまふ

神は役目を終えて、青の光はそのままに消えたのか、わたくし式守に、これが宿題だったが……。

消えたかどうか知らないがそこから先は自分が頼り

その宿題の答えは、このあたりに着地しそうな、しなさそうな。

それは

「摩周湖の幻想といふ絵の前に鞄をさげて」いた<わたし>が、工具を手に持つと、その姿は凛々しいではないか、と。

錆あるも釘

静中の動

改めて引く。

鉄切鋏の不逞の意志の力のはてのじつにしずかなきびしい分離

太い釘まっかな錆を打ちこめばかくれた力がよみがへり来る

「きびしい分離」を見つめる

「かくれた力がよみがへ」るのを見つめるのである。

湖(うみ)も石も、この世界の、あるいは人間の原風景であろう。その自然の美の中に、加藤克巳は、静中の動をなしておられる。

そして、歯車へ

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

日々、暗雲につれて、
風雨につれて、
朝日や月光につれて、
人間は、自然に、幻想の百態を見る。

そこに、加藤克巳は、わたしに、歯車も見せる。

歯車

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

したたりて今し落ちんとする油滴歯車の歯の尖端にして(同)

「エスプリの花」抄
(灰色の空)より

歯車のいたくつめたき噛合いの完璧ゆえに心はうずく(同)

「球体」抄
(楕円)より

かんまんにしぶとくつめたく歯車が今日もあしたもめぐりつづける(同)

「球体」抄
(ムンクの歩み)より

これらは、わたしに、圧倒的な短歌群である。

この歯車を、たとえば人々が生きている社会機構などとの読みが可能かも知れないが、わたしは、そうは思わない。

歯車は歯車である。
実際にその目で見た歯車なのではないか。

ただし、歯車に、社会機構かどうかそれは措いておいて、人間苦は想起されようか。

だから、見つめないではいられないのではないか、加藤克巳は、歯車を。

息吹/芽吹き

加藤克巳『玄青』人間にはかなしみの手さえふる力があること

加藤克巳は、人間苦を人間苦のままに息吹とすることで、歌として魅力があるのはもちろんであるが、わが人生に点在している、まこと不合理な現実に抵抗する意志を与えた。

そして、そこに、次の一首が、のこりの人生への芽吹きを生み出してもくれたのである。

鉄骨のてっぺんの人間なににかむかいかなしみの手をふるのであるか(同)

「同」抄
(同)より

なににか手をふる
かなしみの手を
そう
かなしみなんて手を

鉄骨と同化

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)


Amazon:加藤克巳『玄青』

『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイトホームページ
参考リンク
MEMO

『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイトは、加藤克巳に師事した吉野裕之さんの手によるもので、加藤克巳についての貴重なお話を得ることができます。また、加藤克巳以外の歌人についても、多くの論考を読めます。
なお、吉野裕之さんは、都市の計画・まちづくりの活動をなさっておいでで、その方面の論文も充実しています。