
目 次
現実がぶつけてくる風や波
しっかりせよ厳(いつく)しき声響かせる大き月ありわがふところに(古谷円)
本阿弥書店『百の手』
(新成人)より
『百の手』の〈わたし〉は、このようなお人である。
ただ狼狽に時を移すことを、ご自分に許さない。
他の人とて、このように自分に鞭を打って、次の日につなげることはあろう。
いつまでも床に背を屈めてはいられない。
されど、「大き月ありわがふところに」との表現をなして、現実の風を全身で受け止められるのは、作者・古谷円だけの姿である。
現実がぶつけてくる風や波に大手をひろげてみないことには、人生が、動いてくれるわけがない。
日常を脅かすもの

秋の蝶大日堂めぐり来て老病死くる静けさ照らす(暗闇天女一吉祥天の妹にして禍を授く)
「秋の蝶」は、「老病死」が、それもその「静けさ」が「照」るものだそうな。
そして、この「老病死」は、あたかもご自分に迫り来るかのごようすもある。
藻に濁る池に口より浮かびきて鯉らこの世へ吐き出すくらやみ(天下一嘗)
口開き筒型になる真鯉たちわれを吸わんとくらくひしめく(ひしめく)
一匹ずつ飼われる闘魚真っ青なひれ返しひたに私を見る(真っ青なひれ)
こうなるともう、作者・古谷円の個人感情で片付けてしまえないものがある。
事実、方丈の炎の中で、人間を嗤う存在はある。
一寸先は闇じゃと嘆く女形(おんながた)の小さき首(かしら)われへふりむく(口針)
強者ではないとの自己規定で目を向ける道

組織負う男と親であるだけの女攻防すPTAは(揚げ足)
言い負けて帰る夜車両はがら空きで筋なす光のしじまが満ちる(小さき業平)
無力を痛恨となしておられる。
そして、この痛恨を敷衍させた、次の3首の心情に、時の余風を消さない威を覚える。
信玄軍追撃されし死者の道なめらかにねぎの畑が続く(孤輪の月)
合戦ありし土の記憶を吸い上げてさくら折々薄青く照る(天下一嘗)
七騎かけて実朝の首を運びたる道照りており相模湖の夏(劣化してゆく)
時の薄い埃の下に人生に抵抗した人々の流れを描く。
もはや夢のように流れ去る風景に、古谷円は、目を細めるのである。
人生の抵抗を、現代は、迂遠にしてしまったが、それはすっかり衰弱してしまったままなのか。
作者・古谷円は、それを、道に、静かに探る。
そして知らない道に迷い込む

自転車にて迷い込みたる細き道茶の花に黄の蘂はみだせり(孤輪の月)
トップ選手の女子高生にて過ちてこの道走るごとくにひとり(真っ赤なもあもあ)
人は、時のいたずらによって、どこかに放り込まれてしまうことがある。
静かな道がひとしおひっそりとしている。
人は、そこで、孤独を観念するのである。
が、その先を託されているのは、自分しかいない。
わたしだけがわたしを活かす露帯びて槿のむらさき小さく光る(方丈縮む)
意中に迷いのない人生などない。
「槿のむらさき」は、そこに、「小さく光」った。
古谷円は、時に迷い込んでしまう道があるが、そこに、小さな花が萌えていることを見落とさない。
どこか余分な感じで風に吹かれたる蔦のふわふわ我のふわふわ(同)
飛耳鳥目の人

『百の手』の〈わたし〉は、道をよく歩くが、これが、模索なんて呼ばれているものだとして、模索とあらば、何も生み出してはいないのか。
結論を急げば、そんなことはない。
再びこの一首を引く。
秋の蝶大日堂めぐり来て老病死くる静けさ照らす(暗闇天女一吉祥天の妹にして禍を授く)
全姿が不気味でしかない風によって、ある種の人は、たちまち自身を縛りつけられる。
それは、自分に証文を差し入れているに似るが、『百の手』の<わたし>は、あしたを必ず迎えて、生きている者であればただ当然の姿なのに、これを、短歌の韻律に収める。
秋の日は胸が湿りてならぬゆえ秘仏も我と陽にあたるなり(同)
考えすぎの泡でできてる夜のわれ湯ぶねに溶けてもうなにもなし(うつぶして)
本阿弥書店『百の手』を読むと、人生の苦の反作用に抵抗があることを発見して、わたくし式守は、都度、あしたを信じることを許されるのである。
百の手

沈みゆく日輪百の手をのばす黒く焦げたる富士の上より(百の手)
金泥のひかりとなりし落日の触手が頬をなぞりゆきたり(同)
「黒く焦げる富士の上」によって、「百の手」は、ふしぎな色感と鋭さを獲得した。
祈りを得た、日常に身をめぐる者たちの陰影が、濶然と目の前にひろがる。
人間が世界に隠しているつもりの苦悩に息をのみつつさしのべている手でもあれば、これは、畢竟、永遠の歌。
鬼気がある。愛がある。
かくして本阿弥書店『百の手』は、わたくし式守の、のこりの人生の先を導いた。