
目 次
たとえばクリスマスはこう詠まれた
樅の木の線対象のいくつかを収めた冬のカメラを磨く(服部真里子)
本阿弥書店
『行け広野へと』
(冬のカメラ)より

「樅の木」を「冬のカメラ」が。
ああ、これは、クリスマス会の記念写真か。
クリスマス会で盛り上がっている人たちは描いていない。
クリスマス会自体はもっと動的だっただろうに、服部真里子はそれを、静的に表現した。
「樅の木」と「冬のカメラ」なる名詞の力を借りて、クリスマス会は、観念が吹き込まれた。
もはやわたくし式守の大胆な仮説になってしまうが、「冬のカメラを磨く」のは、<わたし>なる服部真里子ではないだろう。
神がわたしたちをよろこんでおられる、それを、「磨く」なる動詞を介して「冬のカメラ」に収めた。
生きるにおいて最も価値ある瞬間として、服部真里子は、このような表現をしてみせる。
キリスト教徒の歌人は、何も服部真里子お一人でない。
が、わたくし式守は、信仰と短歌の融合に果敢に取り組んだ歌集として、『行け広野へと』に、服部真里子の世界観を称揚して敬意を惜しまない。
次の一首は、ホワイトクリスマスであろうか。
雪は花に喩えられつつ降るものを花とは花のくずれる速度(冬のカメラ)
受胎告知はこう詠まれた
丈高きカサブランカを選び取るひとつの意志の形象として(行け広野へと)

この一首は、聖母マリアの受胎告知の場面かと。
この一首でも、「カサブランカを選び取る」のは、服部真里子なる<わたし>の姿ではない。
聖母マリアを詠んだものなのではないか。
後世の画家たちも、受胎告知で、その絵画の天使ガブリエルと聖母マリアに必ずユリの花を添えた。
ユリは、純潔、謙虚、あるいは美のシンボル等々。
そして
わたくし式守は、この一首で、ユリに、イエス・キリストの物語のはじまりの、マリアの決意も覚えられた。
すなわち「ひとつの意志の形象」を。
神の使いの天使(ガブリエル)の訪問を、マリア(マリヤ)は、はじめは戸惑う。
当然か。神への畏れがあろう。
しかし
38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。
ルカによる福音書1
それは海抜の最も低い土地から

どの町にも海抜がありわたくしが選ばずに来たすべてのものよ(スレイマーン、またはソロモン)
イエスは、ジェリコ(エリコ)に到着した。預言者のヨハネの話を聞くためである。
ここは、海抜マイナス258m、世界で最も標高の低い町(また世界最古の町)である。
「わたくしが選ばずに来た」とある。
これまでの人生に、何々はいやだ。それはかんべん。そんなのごめん。
な~んてことがいくたりとあった、ということなのか。ほしいものはほしがったのに、とか。
違うな。
そうじゃない。そんなことじゃない。
やはり服部真里子ご自身を詠んだものではいだろう。
「わたくしが選ばずに来た」とは、イエスが生存していた遠く現代の人間たち、との歌意であろう。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
ヨハネによる福音書15
イエス・キリストに、後世のわたしたちもまた、選ばれた者なのではないか。
今も頼られているのではないか。
「すべてのものよ」と。
イエス | 町 | 人間を |
---|---|---|
生存中 | 海抜は マイナス | イエスが選んだ |
現 代 | 標高が どこでも | 弟子たちの結実 |
このあたりで、歌集の題が『行け広野へと』になる構成を思うに至る。
しかし世界の現実は

向こうという言葉がときに外国を指すこと 息の長い水切り(行け広野へと)
水切り?
水切りとは、小石を水面に投げて、石が水の上を跳ねるアレのことか。
<わたし>の手は、小石を巧みに放した。小石は、水を切って跳んでゆく。波を、鳥のように美しく蹴って。
「息の長い水切り」ともなれば、「向こう」との区切り、つまり国境線は、この一首にない。
先進国列強同士によってパレスチナに勝手に国境線が引かれた歴史がある。
ユダヤ人もアラブ人もそりゃ怒るだろう。
「向こう」はわが国のように平和でいられずに
英語のニュース聞く夜と朝まぶしくてまぶしすぎて見えない天体よ(あなたを覚えている)
まぶしい?
夜空を描く空対空ミサイル、地対空ミサイルの光線の夜空か。
もちろんゲームの話ではない。
夜空を、火炎が高くのぼっている。
「英語のニュース」とは、その報道映像のことであろうか。
人間の歴史は、結局、悪に支配されてしまうのか
目には見えない悪

8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
マタイによる福音書4
9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
こんな目には見えない悪が、この世界は、ごろごろいるのである。
どこかに潜んでこっちの隙をうかがっている。
それはたとえば、次の一首の「むく犬」のようなものかも知れない。
人の世を訪れし黒いむく犬が夕暮れを選んで横たわる(天体の凝視)
「夕暮れを選んで横たわる」ことに戦慄する。
わざわざ「人の世を訪れ」て来たのである。
そして今、見えないように、しかし、堂々とどこかにいるのである。
悪意への抵抗

この世は、目には見えない悪がある。
服部真里子は、いかにもきれいなところで、いかにもきれいなものだけ見てはいないのだ。
と、思うのである。
むしろ悪を人一倍感受しておいでなのではないか。
腐敗したもやしが少し森の匂い運命について思いはじめる(行け広野へと)
この一首の「腐敗」が実見したところの「もやし」ではなかろう。
人間に悪があること。運命的に悪が生まれること。
(前略)
内村鑑三『ヨブ記講演』
今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て充たされている。世界大乱一度収まりし如くにして実は収まらず、戦の噂は噂を生みて、今や全地大洪水に溺れんとするが如く見ゆる。我らの憂慮も何らの効果なし。我らの努力を以て全地の大海を抑うることは出来ない。我らはただ熱心に祈るのみである。しかし神は
(後略)
第十八講 ヨブの見神(二)
第三十八章の研究より
見えない悪が人間にいかに恐怖か、宮部みゆき(無類のおもしろさ)が、エンターテイメントの小説で描いている。
が、では、一冊の歌集の中で、それを、ほのかに見せてしまうことに成功している例はないか。
『行け広野へと』は、その栄光に浴していないか、との評価を、わたくし式守はしたのであるが。
うす曇り吹き散らされた花びらが水面に白い悪意を流す(塩の柱)
見ろよ、「白い悪意」だよ、「白い悪意」。
が、ここに、「白い悪意」は、風によって流されたらしい。
風によって
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。
ヨハネによる福音書3
そして
自画像を描くことが少ない服部真里子の次の一首の自画像は、歌集『行け広野へと』の中で、わたくし式守に、白眉の歌である。
草原を梳いてやまない風の指あなたが行けと言うなら行こう(どんな水鳥でも水ではない)
風。風。風。
霊。
神。
イエス・キリスト。
誓い。
あなたが行けと
言うなら行こう
なるほど『行け広野へと』になる

歌集『行け広野へと』において、わたしがとりわけ愛しているのが、次の一首である。
キング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして(キング・オブ・キングス)
イエスは、その生涯で、地上を治めたことなんてないのである。
いま、神の国の王として,天におられる、ということになっているらしいし、また、イエス・キリストとは、そのように神に求められている存在である。
18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである
ヨハネの福音書1
金印を誰かに捺(お)してやりたくてずっと砂地を行く秋のこと(金印を捺す)
ここで「金印」をどう読めばいいか、であるが、これは、いっそうわたしの手に余る。
神による「しるし」を、聖書にたびたび目にすることがあるが、この一首に照応するものとして、次の福音書を引きたい。
17 信じる者には、このようなしるしが伴なう。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
マルコによる福音書16
18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる
そして、ここで、次の一首を改めて引いてみるのはどうか。
どの町にも海抜がありわたくしが選ばずに来たすべてのものよ(スレイマーン、またはソロモン)
なるほど『行け広野へと』になる。
と、思うのである。
次の一首は、その作者・服部真里子に、やさしくあたたかいまなざしが目に見える。
金印を捺されたような静けさに十月尽の橋わたる人(金印を捺す)
人はまた歩き出せる。
また歩き出せる生命なのである。
と、思うのである。
すなわちその愛を信じれば
光を包むものがある

三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死(雲雀、あるいは光の溺死)
はつなつの光よ蝶の飲む水にあふれかえって苦しんでいる(夏の骨)
蝶を踏む足裏の柔(やわ)さ光にはひかりの色の繊毛がある(塩の柱)
『行け広野へと』の短歌群を繰り返し読むと、光とは、何かを包むものではなく、何かに包まれているものらしい。
光が外側ではない。光とは内にあるものなのである。
この光で、服部真里子は、イエス・キリストの恩寵を、わたくし式守に、次のように示した。
日のひかり底まで差して傷ついた鱗ほどよく光をはじく(湖と引力)
光はやはり川の内にある。
その光に「傷ついた鱗ほど」照るのである。
傷ついた者ほど愛されるのだ。
イエス・キリストは、傷ついた者こそ問題にしておられるようなのだ。
そして神なのではないか
かがやくような浪費を

イエス・キリストの愛を信じること。
この歌集『行け広野へと』を、一貫してそのように読む、としてみる。
されば、わたくし式守は、次の一首を、福音書の、ベタニヤのマリアの香油の場面を下敷きにしている、との読み方をする。
新約聖書にはマリアの名の女性が複数登場するが、ここでは、他のマリアの話まで踏み込まない
星が声もたないことの歓びを 今宵かがやくような浪費を(千夜一夜)
星が声もたない
イエス・キリストは、現代は、ご生存ではない。
が、ご生存だった当時は、「星が声もつ」ことはない。イエス・キリストの肉声をそのままおききすればよいだけだ。
それはそれはさぞ「歓び」であろうか。
と、思うのである。
かがやくような浪費
ここを、ベタニヤのマリアの香油の場面を詠んだもの、との読み方をしてみる、というわけである。
ありていに言えば、この場面には、「浪費」とも言われよう行為がある。
3 (前略)香油をイエスの頭に注ぎかけた。
マルコによる福音書26
4 すると、ある人々が憤って互いに言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人ひとたちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。(後略)
真の愛のコスパ
そこそこの大金で貧しい人々に施す、と。よろしい。
が、貧しい人々は、その金でもう何の憂いもない人生が待っているとや。
一瞬の、ちょっと直接的なだけの効果が、真に愛の行為になるとや。
ベタニヤのマリアのこれは、現実的な人生に、たしかに効果はなかろう。
が、祈りである。
信仰である。
真の愛とはどっち。
どっち?
愛は?
走れトロイカ

♪走れトロイカ♪を聴くと泣きたくなってくるのはわたしだけか。
かなしくないか、あの曲。
雪の白樺並木 夕日が映える
「トロイカ」
走れトロイカほがらかに 鈴の音高く
ロシア民謡
いけない、いけない。また歌っちゃったよ。
やっぱり泣きたくなってしまったではないか。
そして、ちょっと無口になってしまった。
この無口に「開く幾千もの門がある」、と服部真里子は詠むのである。
走れトロイカ おまえの残す静寂に開く幾千もの門がある(地表より)
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
マタイによる福音書7
その門は狭き門である、とも説かれている(マルコ7・13-14)が、ここでは、そこまで踏み込まない
名詞に愛を吹き込める

運河を知っていますかわたくしがあなたに触れて動きだす水(天体の凝視)
「触れ」ることで「また動き出す水」があるそうな。
生きるにおいて最も価値ある瞬間が、「動き出す」なる動詞を介して、「水」に収められた。
「あなたに触れて」と。
あなたに
「あなた」、これははっきりと、イエス・キリストのことかと。
うるさく補足すれば、イエス・キリストの愛に包まれること。
水
これは、あるいは、時間のことかも知れない。時間の流れのことかも知れない。
<わたし>がまた新たに動き出す、といったような。
あるいは
また
愛。
あるいは愛が生まれたことかも知れない。
からだを、こころを、愛がながれること。あふれてくること。
この人生に永遠の愛が生まれることかも知れない。
愛が
永遠の
服部真里子とは

服部真里子は、その短歌に、ぽんと名詞を置いて、高次元の観念を披く。
神の国やイエスの再臨は、所詮、非信徒に、信徒の言葉では理解されないのである。
それを、服部真里子は、短歌で、このわたしに福音を宣べることに成功した。
それが本意かどうかもとより知る機会はないが、この歌集『行け広野へと』は、服部真里子の、余人には窺い知ることのできない深い瞑想とそれを短歌にしてみる強い決意が先に立っていることを思わないではいられない。
『行け広野へと』の著者は、
なんてすばらしい信仰の徒であろう。
なんてすばらしい短歌の徒であろう。