春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

トップ・オブ・ザ・ワールド

四半世紀以上は前の映画で、タイトルも忘れてしまったが、あれは、アメリカのラブコメだった。
勤め先の憧れの女性とやっと話ができることになって、主人公の若い男性が、
「音楽は誰が好き」
「カーペンターズよ」
「!」
ぎょっとしていた。

笑った。

カーペンターズ。おお、あの無菌の世界。
この世に悪意など存在していないかである。

表現の世界には、ものを表現しているようでいて、実は、何かを隠蔽しているものもある。
いいのか、そんな生ぬるさで。

カーペンターズはいいのである。
無菌だなあ、とはやっぱり思う。が、生ぬるさはない。
通過する時間に敬虔だからである。

わたしは、本阿弥書店の『ここからが空』を読んで、時間の観念が更新された。
人が時を送る、ということに敬虔になれた。

時間という容れもの

春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

立錐の余地なき野菜室のなかVIP席あり胡瓜のために(未生の時間)

七洋を征服する唄くちずさみ屑籠すべてからつぽにせり(同)

家の床は、時の経過に伴って狭くなる。
ものが増えるからである。
で、家の床に置かれたもの、ここもまた狭くなるようだ。

家庭とは、探せば、さまざまな時間軸があるらしい。

てのひらのサイズにたたむロンパース箪笥に未生の時間いきづく(同)

時間は、箪笥にも。
「ロンパース」を着る児にも。

そして、時間の容れものとしては、家庭そのものもまた。
が、これは、「野菜室」や「屑籠」に収まるようにはいかないようだ。

電子音かぶさりあへる朝七時家はふくらむ楽曲の函(同)

「ふくらむ」ことが避けられないサイズである。

時間という通り道

春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

時間という通り道は、少しそこを歩いただけで、愛と呼べる石がすぐに見つかるものらしい。

知恵の輪を解くさま披露するやうに子はわが腕をすりぬけてゆく(万愚節、晴れ)

「てのひらのサイズにたた」める「ロンパース」を着ていた児が、今は、動いているではないか。
スーパーのフードコートあたりか。ひとりでどっかに行かないように抱えたのか。
母なる<わたし>を力でふりはらわないのがいい。

みづからの選びしネックウォーマーに口を隠して思春期に入る(ネックウォーマー)

思春期ってあなた、さっきまで「ロンパース」だったんですよ。

たのしい

次の一首の時間では、わたくし式守は、美しい音楽さえ聴こえた。

なめらかに林檎の皮をむく吾子の手よりこぼれて時間は深紅(同)

おお、「林檎」もまた、時間の容れものだったのか。
皮をむくことで、時間が、可視化された。
母と子の血の流れは美しく交響して、可視化された色は、なるほど、深紅がふさわしい。

限りある時間

春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

この星の芯より湧きてたんぽぽのひとつひとつが空の受け皿(皐月)

<わたし>は、自分に、自分を包まない。
まずい書き方だなあ。
世界に、自分を包んでしまう、ということ。
<わたし>もまた「たんぽぽ」だ。

されば、次のような一首も生みだす。

選ばれて生きてゐるとは思はねどおもはねど今日の空のひた青(歳月の傘)

空よ

「生きてゐる」と。

<わたし>は。
また、「たんぽぽ」は。

高く晴れわたる
空の下に
等しく
美しく

時間を生む空

春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

何のために生かされてある命かと仰げば空にあそぶ絹雲(貫乳の胸)

仰ぐことわすれゐし目に見つけたり今日のいのちを咲く桜ばな(まなうらに闇を)

顔を上に向けることの、しかし、質が異なる2首を並べてみた。
いずれも生命をそこに見ているが。

わが人生を超えて存在する時間は、なるほど、意識的に顔を上げないと目に入らない。
されど、「今日のいのち」は、ちょっとようすが違う。むこうから接近してくれるのである。

トマトの葉ちぎればトマトのにほひして昨日より深き空ふり仰ぐ(文月)

空とは、かくも緻密に時を刻むものだったとは。
春野りりんの送る人生は、時が、嬋娟と咲き乱れている。

空よ

わたしがとりわけ愛しているのが、次の一首である。

雨音の傘に爆ぜては消えてゆくひと生(よ)なるかな十薬白し(水無月)

ドクダミの繁殖力のたくましさは、屋外作業が伴う清掃管理人の、等しく難儀することである。
ドクダミが白く美しい花を持つことは、進化の過程で、どれだけの意味がある。

が、ドクダミにしてみれば、大きなお世話であろう。
遠雷があれば、草は臥す。花々も戦慄する。
雨の有り無しに翻弄される人類と大差はない。

あたらしき銀杏並木のととのひて秋は具象をひとつ増したり(霜月)

このあたりになると、「ととのひて」と表現することが、春野りりんによく似合うことが知れる。
莫だったわたくし式守のこころにも、「具象」は、すとんと着地した。

黄金の銀杏並木
秋の青空
時はめぐって
めぐって

空があって

春野りりん『ここからが空』短歌に嬋娟と咲き乱れる時間の美

ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ(未生の時間)

ガウディの手によるサグラダ・ファミリアは、巧緻と優雅が共存している。
空があって完成を見た。
人もまた。
時もまた。

空があって
しかし

そんな空とはそもどこ。

どこ?

ここからが空

青草をのぼりつめたる天道虫ゆくりなく割れここからが空

(歌集「ここからが空」最終の一首)

「ゆくりなく割れ」る、聞こえるか聞こえないかの美音。
この「ここから」は、「天道虫」の乾坤の一擲である。
そして、外観は風流を詠じているかの底に、ご自分と、ご自分を包む世界との交情を生みだしておられる。

わたくし式守は、ここに、始まりも終わりもない空をおもう。
「天道虫」に目を細める背に、世界中の、史上の生命が伝わるのをおもう。

春野りりんの『ここからが空』を、わたくし式守は、もう何度読み返したか知れないが、都度、満腔の敬意をはらってこの歌集は閉じられる。

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