
目 次
うさぎと暮らす芸術家
ぎっしりと雨降る窓に畳まれた時間だわれは正座している(花山周子)
青磁社『風とマルス』
(正座)より
この先に計り知れない物語が待っている幕開けのようだ。
「正座している」この「われ」の姿は、この歌集の全体を支え得ている。
ほんとうです。
青磁社の『風とマルス』を読み返すこといくたりか、わたくし式守は、『風とマルス』に、この一首を、そのように置く。
「正座している」場面の、この部屋がまた、非凡なのである。
「ぎっしりと雨降る窓に畳まれた時間」なんだそうな。
そして、こんな一首もある。
如月の廊下にしんと日は射してうさぎは胸に毛をためている(机)
「われ」のある家族を、「うさぎ」が、このように生きてもいる。
眠りたいのに

わたくし式守は、あれこれうじうじ考えて、その日をいたずらに過ごしてしまうことがままある。
が、眠る、となったら、それはもうソッコー正体をなくして眠れるのである。
ところが、『風とマルス』の<わたし>は、そうはいかないようなのだ。
かなしさは眠たさになり眠りたり眠りて悪夢に怒鳴りて眠る(口笛)
ぶたくさの根っこを抜かれているような私の胸を押さえて眠る(パブロ・ピカソの眼光)
こんな夜を過ごす。こうまでしないと眠れない。
痛ましいなあ。
眠れないどころではない。そのまま朝を迎えてしまうフシもある。
雪掻きの音が私にかぶさりてくるように聞く朝のふとんに(雪)
ついに「雪掻きの音」に重力まで生まれてしまったではないか。
世界中の夜に眠れない夜を広げてしまういきおいである。
泣きながら朝を迎えてゴミを出す。光の中にゴミを出したり(二〇〇九年一月、二月)
『風とマルス』の<わたし>は、しかし、都市の夜の華をねりあるくようなことはしないようだ。
ばかりか、「ゴミを出す」生活感まで備えておられる。
しずかな朝日を、「光の中」としておいでであることに、<わたし>が、一日の始まりを、外の世界を、拒絶してはいないことがうかがえる。
「見る」にも才能が問われるのか

時計にはガラスが貼られあることの不思議に深夜、顔近づける(仮面)
「深夜」なのに、またこうだ。
また眠れない。
が、ここでの眠れないは、ちょっと様相が違う。
「深夜」ではあるが、「時計にはガラスが貼られあること」を、<わたし>は、凝視している。
「時計にはガラスが貼られあること」を「不思議」としていること、「不思議」であれば、これを捨て置かないことに、わたくし式守は、大きな魅力を覚えられる。
君の顔、夜の光に照りているその健康にわれは見とれる(口笛)
「健康」に搏たれる。
裏を返せば、<わたし>は、ご自分に不健康の負い目があるかだ。
だとすれば、それは、健全な負い目だろうが。
眠れない夜がある<わたし>が、「君の顔」に、「健康」を感受したこと。
生きづらい現在に喘ぐことをこれでもかと詠む現代短歌に、この「健康」は、清新である。
わが前に再び立ちて見はるかす砂漠のような空を見ている(海外の人)
「再び立ちて」の「再び」が美しい。
「君」を愛する歓喜と「君」に会えない悲愴が、この「再び立ちて」を合図に、途中で止めることができない音楽を聴かせる。
遠くに生きる「君」を恋しての一首と思われるが、その「君」がたとえ「砂漠のような空」のはるかかなたにおられようが、<わたし>は、「再び立つ」ことをよすがに、この人生を生きるのである。
「見る」ことの変容

『風とマルス』の<わたし>の「見る」は、それを「見る」ことが、あたかも鑑賞に変容してしまうことがある
ここは案外いいところだね夕暮れの動かず浮かぶ鴨を見て言う(いいところ)
明らかに夕日は在れどなかなかに見える角度に至らぬ電車(虫歯)
それをキャンバスに収める画家の眼になる。
大きさのちがう飛行機何回か見た工場の狭間にわれは(工場、風景)
これ、これ。この一首。
これって何よ
その眼にある世界よ
わたくし式守は空港の近くに住む者であるが、飛行機を、上空に見る機会が少なくない。
されど、「大きさのちがう」との形態知覚が発動した試しがない。
また、「飛行機」はあくまで背景で、<わたし>が立っておいでの舞台は、「工場の狭間」である。「飛行機」だけではないのである。
この世界を、<わたし>の眼は、絵画的に彩るのである
それが言葉になり、短歌になる
「描く」ことこそ

ミッキーマウスの顔の不気味な構造に描こうとしつつ驚いている(ミッキーマウス)
ディズニーランドというところがある。
そこで、ミッキーマウスってば、もういいおっさんの、この式守を手招きして、妻と写真に収まってくれたのよ。
おお、ミッキーマウス。
きみっていいやつだね。
それを、『風とマルス』の<わたし>くらいにもなれば、「ミッキーマウスの顔の不気味な構造」との認識を得られるのである。
そして
ぶどうの実描きつる夕べひとつふたつぶどうの珠は仕上がりにけり(鏡)
蝉の目に点なる光描き足してわれは眠れり明日明けるまで(机)
眠れた。
この世界の点景として

一畑(いちばた)電車の乗客はわれ一人なり畑の景色のみが続けり(鳥取港)
都市の夜の華にはない美しさがある。
美しくはあるが、脳裏に刻み込まれるのは、わたくし式守においては、むしろ「われ一人なり」の「われ」である。
なぜ?
ああ、そうか。
一回の運行で「一人」の電鉄なんだ、となる。
「畑の景色のみが続」いてしまうことが当然の帰趨の土地らしい。
あ、いや、この「畑の景色」はあたし独占よ、てなもんだったかも知れないが、でも、そうかなあ、そういう上句かなあ。
(あと、一畑とは、「われ一人」の「畑」のことだったか、なんてシャレとか)
この一首が、先行世代の汽車の旅情と一線を画している、として、では、次の一首なんかはどうだろう。
秋なのか春なのかわからないような夕暮れを私はバスに乗って進めり(晩夏より初秋の風景)
こんどは「バス」です。
「バス」での風景は「夕暮れ」だ。
その「夕暮れ」は、「秋なのか春なのかわからない」そうな。
この一首の心情の再現性は、「秋なのか春なのかわからないような」とのふわふわした手触りの修辞で、精彩を放ったように読めなくなかったのであるが……。
そういうふわふわした彩色の絵画があるではないか。
花山周子のような芸術家ともなれば、このように、着実に、この地に生命を置けるのである
ご自分を点景とした背景をいくらでも拡大できる

後ろからも前からも私一人なりビニール傘は風がさらって(パブロ・ピカソの眼光)
逃げも隠れもしない。自分を見失うことがない。
『風とマルス』の<わたし>の凛々しいさまを、この一首は、とりわけよく映し出しているのであるが……、
<わたし>は、こんなところにも、ご自分を置くのである。
月の後ろも前も暗がり冬の空ひろびろとわれに覆い被さる(二〇〇九年一月、二月)
ご自分をめぐる円周を自在に操れる。
されど、時には、次のようなアクションが、<わたし>を待ってもいる。
近代に生まれしもののひとつなる夜景の底にしゃがみこむなり(思い出)
都市の夜の華はからだに合わないようだ。
「しゃがみこむ」とは、自分で自分を支え得ないことである。
しゃがむ?
しゃがむ。
しゃがむってナニ?
何?
<わたし>も<うさぎ>もしゃがむ

発情期過ぎてふたたび大人しきうさぎの前ににんじんを置く(磁力)
「うさぎ」のこれもまた、「しゃがむ」姿だ。
が……、
ここで<わたし>は、「大人しきうさぎ」に、さびしがっておいでに見えないか。
わたくし式守は、この一首を、淫するほど読み返した。
そして、次の一首をオーバーラップさせた。
どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く(缶から)
生きてるよなあ
いい歌だなあ
でも、これは、ちょっとまずいオーバーラップだ。
これでは、<わたし>が、あたかも「発情期」の女性みたいじゃないか。
そうじゃないんだよなあ。
そんなことを言いたいんじゃない。
「どうしても君に会いたい」らしい。
まず、このいじらしさに、わたくし式守は、愛惜を持ったのである。
そして、大人の女性にあってなお成長過程にあることをおもえたのである。
では、「ふたたび大人しきうさぎ」とは何よ。
「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」一方として、「ふたたび大人しきうさぎ」に、説明のつけられない哀傷が見えたのである。
<わたし>の無意識は、気高い精神と行動の血気で、心身に理性を行き渡らせることが不可能になった。
警戒。
だからしゃがんだ。
『風とマルス』の<わたし>は、自分を見失うことがない。
そりゃそうだろう。
逃げも隠れもしないでしゃがむ。
迷走する流れを止めるに、これをおいてもっといいあり方があるだろうか。
「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」行為は、自覚的である。
このように世界を生きる。
あるいは、これまでの人生の難局も、このように乗り越えてきた。
コスモスがもつれて咲いている駅にしゃがめば澱む夕影の中(人魚姫)
「再び」の美しさ

ここで、あの一首を、改めて読み返してみたい。
わが前に再び立ちて見はるかす砂漠のような空を見ている(海外の人)
「再び立ちて」の「再び」の美しさ。
「君」を愛する歓喜と「君」に会えない悲愴。
その共鳴は音楽になること。
『風とマルス』の<わたし>は、このようなお人なのである。
このようにこの世界を生きているのである。
このようにご自分が生きておいでの社会の扉を開く
社会の、特別な人にしか見えない扉の、その鍵を持つことをゆるされた、偉大な芸術家にも見えてくるのである
いったん幕を下ろす

さて、「うさぎ」の、こんな一首がある。
うさぎの毛くうかんに浮くさびしさの窓をあければ如月の風(如月の風)
うさぎの換毛期だろうか。ただの抜け毛か。
何にしたって、「うさぎの毛」が、「くうかんに浮」いた。
<わたし>に、これは、こたえたか。
「さびしさの窓をあけ」る、とあるが。
「うさぎ」は、<わたし>よりも成長が早い。
青磁社『風とマルス』に、その人生に与えられた条件をのみこんで、その受苦をエネルギーに生きる女性がいる。
受苦は苦なのに、その苦は、一女性の人生に奉仕しているのである。
短歌とはどれだけ魅力的な文学なのだろう。
さて
ぎっしりと雨降る窓に畳まれた時間だわれは正座している(正座)
当初、わたくし式守は、この一首を、幕開けにふさわしい、としてみた。
違っていたかも知れない。
『風とマルス』を愛読するにおいて、この一首は、むしろいったん幕を下ろすのにふさわしい一首かも知れない。
そして、この幕は、この先も、わたしの手によって、何度も、何度もあけられることであろう。