
1
わたしは、十年以上を、マンションの管理人をしているが、ゴミ出しのマナーの悪さに驚くことでは、いっこうに慣れることがない。
それは一部の心ない人によるもので、分別など意識している人がいない、ということではもちろんないのであるが、人を騙しても良心の痛まない人に不思議を覚えるのと同じ程度に首を傾げることさえある。
2
おもむろに茶色の液体を吐けり転がることを止めたる缶は(吉野裕之)
邑書林 セレクション歌人
『吉野裕之集』歌集
「空間の和音」抄
(Ⅶ)より
<正しくは「𠮷野裕之」です>
路上にペットボトルや缶を投げ捨てる人がいる。
が、私有地にもこのようなことをしてしまえる人は、まことに少なくなく、またなくなることがない。管理人はこれをいちいち集めてまわる。
だが、これはまだいい。拾えばおしまいだ。わたしの仕事はそれだけでいいのである。
では、段ボール箱や古雑誌、ペットボトルや缶を、生ゴミに混入して棄てられれば、自治体の収集車はこれを放置するが、そのあたりはどうか。
管理人は泣き寝入りして分別する。これもまた仕事である。
そのようなものをしかも夜間に出されて、放火の憂き目に遭ったこともあるが、人間は、他にもこれをしている人がいる、となれば、されば自分も、と分別をしないで出す人になってしまうことがあるらしい。
街のムードは悪くなる。
管理人は町内会の役員と協力してこんな愚かな連鎖に太刀打ちしてはいるが、放火犯は警察の力を借りられても、ゴミは分別しましょうね、なんてことに、警官を動員できるものではない。管理人も町内会の役員も、それが不法の投棄であっても、取り締まりの権利も資格もありはしないのである。効果の上がった試しのない「分別しよう」を掲示する、不毛な作業に落着するばかりである。
街のムードは取り戻せないのか。
3
吉野裕之の短歌が好きである。
たとえばこんな一首。
他人事(ひとごと)のような相づち打つなんてもう肉まんを分けてあげない(吉野裕之)
「同」
(ⅩⅤ)より
自分にとってたいせつな話をした相手に怒っているようだ。
「他人事(ひとごと)のような相づち」を「打」ったからであるが、その気持ちを、「もう肉まんを分けてあげない」と。
「もう肉まん」の「もう」は、これまでも「肉まんを分けてあげ」たことがあったからであろうが、そんな和やかな関係にあるのに、相手は、「他人事(ひとごと)のような相づち」を「打」った。
このようなすね方をしてみせる<わたし>は、短歌としても、実人生としても、まことに魅力的ではありませんか。
にしても、話した内容とは、たとえば何。
どんな内容であっても、吉野裕之に、この話題ばかりは粗略に扱ってほしくなかった。
4
従来、地域づくりは主に行政セクターと企業セクターが担ってきた。しかし、地域は日常の生活や事業を営む具体の場である。それは、いわば人びとの営みの蓄積の継承/形象。本来、これら2つのセクターだけでは十全にそれを進めることはできない。
『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイト
[まちづくりNPOの可能性と課題]
地域づくりにおける市民セクター
-可能性と課題をめぐって-
(NPO=市民セクターの可能性の発見)
このホームページは、短詩系文学のカテゴリーも設けられていて、吉野裕之氏の歌の師であられる加藤克巳についての貴重なお話を得ることができます。また、加藤克巳以外の歌人についても、多くの論考を読めます。
吉野裕之の手によるこの一文に、わたしは、「他人事(ひとごと)のような相づち」など「打」てない。
わたしには、街を思っての憤りがある。街における自分の非力を痛感することがある。
担当現場での不合理を嘆いているだけではないのだ。
吉野裕之の「まちづくり」とわたしのそれは、根本のところでは、似て非なるものであろうが、わたしを、ぐいぐいと引き込まないではおかない力がある。
5
吉野裕之の短歌に、このような一首がある。
ビル街のバス停を少しはみ出でて秋雨に濡れていたり妊婦は(吉野裕之)
「同」
(Ⅳ)より
「バス停」は、ふだんであれば、次のような一首である。
じゅうにんがしずかに列を作りいるバスに停に夏うぐいすの声(吉野裕之)
「同」
(ⅩⅣ)より
バスなんてものが通る道が、吉野裕之の手によって、まことに清澄な景色としてここに結実した。
されど、「秋雨に濡れて」しまう「妊婦」ってどうよ。「うぐいすの声」のように清澄な調べを体感する類ではない。
「妊婦」が「秋雨に濡れ」る街であってはならない。
6
まちは制度によって整備されてきた。制度は、人びとのよりよい生活の実現の達成のために、まちに施設を配置する。しかしそこでは、人びとの実際のありようを捨象あるいは抽象し、実体のない生活者像を描き、それに基づき施設に機能を付与、設置してきたのではなかったか。
[まちづくりNPOの可能性と課題]
まちをより豊かに実感していくこと
-立ち返る原点として-
多様な手法の総合
7
マンションの部屋より見ゆるビルの上にひとつバルーンは夕昏れるまで(吉野裕之)
「同」
(Ⅲ)より
この街は消費が盛んであるらしい。
経済が活性化してれば、財政的に、まずは重畳である。
しかし、企業とは、そこでもう胡坐をかいていればいいとならない。
岩田屋といってもたぶん東京の人は知らないデパートである(吉野裕之)
「同」
(Ⅶ)より
岩田屋の市場は、この街で、どれほど優勢なのか。
ものの値段の付け方はどうか。わがもの顔でものの値段を付けていないか。
東京が本社の全国チェーンは、さればと、この街に出店するだろう。これまで優勢だった市場を、全国チェーンは、たちまち奪える力がある。
8
従来、まちづくりは主に行政セクターと企業セクターが担ってきた。しかし、まちはいわば人びとの営みの蓄積の継承/形象であり、本来、これら2つのセクターだけでは十全にそれを進めることはできない。
[まちづくりNPOの可能性と課題]
地域づくりにおける市民セクター
-可能性と課題をめぐって-
NPO=市民セクターの可能性の発見
企業間は競争である。地元がそこで胡坐をかいていれば、本社が東京の企業に、たちまち敗れてしまおう。「アドバルーン」を浮かべている場合ではない。
行政と企業のまず企業は、市民に有利なものを提供する。
しかし、この街の「ひとびと」にそれがいかに有利であっても、これまでここで商いをしていた人の保障は限界がある。
行政もまた然り。
ここでこの一首を読み返したい。
マンションの部屋より見ゆるビルの上にひとつバルーンは夕昏れるまで(吉野裕之)
このアドバルーンが市場においてフェアと言えない広告を打てば、公正取引委員会という行政は、黙っていない。それくらいの手当ては、行政は、それこそ公正にしてくれよう。
が、本社が東京の企業の営業を差し止めるまでの措置はとれない。
とれないばかりか、消費者に企業努力を惜しむことがない企業に、自治体という行政は、これまでよりも税収を見込めることで、既に次年度の予算を立案していようか。
9
店閉じて数ヶ月経つ駄菓子屋の前にトマトが転がっており(吉野裕之)
「同」
(Ⅷ)より
吉野裕之の、これも、わたくし式守を捉えて離さない一首である。
ここを通る人が絶えてはいないのである。
されど、「駄菓子屋」は、存続を許されなくなってしまった。
「トマト」一つの転がりは目に痛い。
まことに哀切な通りである。哀切な街である。
10
踏切を貨物列車は通り過ぎわが風景となる冬木立(吉野裕之)
「同」
(Ⅴ)より
「わが風景」と。
この一枚の“画像”に、吉野裕之は、ご自分も撮っておられる。
「貨物列車は通り過ぎ」た、とあれば、名も知らぬ「冬木立」が鋭い音もたてていたかも知れない。「踏切」近くを、「冬木立」の、枝を揺らせて蕭々と鳴る音が聴こえてくるような、これも、わたくし式守が愛している一首だ。
この街は、それが幹線なのかどうかまでは見通せないが、物流に足る線路があることを見落とせない。
されど、「駄菓子屋」は、店をたたんだ。
11
駄菓子屋が閉じた通りに、どこか大手が、市場調査を経て出店することはあるだろうか。
一概に言えないが、まずそれは、考えられない。携帯ショップあたりであれば、出店のリスクは少なかろうが、一般の物販であれば、まずここを選ぶことはないかと。
通りは、ひいては街は、ますます哀切を極めることになるかと。
12
駄菓子屋が店をたたむのは時勢としても、この街が、なお生きてゆくために、人々はどうすればいい。
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世間や組織などの常識やしがらみに縛られるのはあたりまえ。そうして生きていくのが、一人前の大人である。自由になれるのは、社会の一線を退いてからだよ。そんな声が聞こえてくる。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。
[まちづくりNPOの可能性と課題]
自由を失っていくと、ものの見方や捉え方はどんどん硬直していく。
まちをより豊かに実感していくこと
-立ち返る原点として-
まちにないもの
吉野裕之の人生に、観照は、まだ失われていないのである。
新鮮な感度を今も保って、吉野裕之は、「まちづくり」に本気で生きておられる。
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道化師が口をゆがめる 空間はにんげんのにおいでいっぱいだ(吉野裕之)
「同」
(ⅩⅢ)より
吉野裕之は、NPOの仕事で、また歌の道で、ご自分の花粉を社会に撒いておられる。
吉野裕之は、その仕事に、歌の道で、誇りを研いでおられるが、そこに達成の満足は読み取れない。それこそが、逆に、短歌としても、実人生としても、わたくし式守の惰気を覚ます。
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吉野裕之が([まちづくりNPOの可能性と課題]で)語ったこと、歌集に選んだ作品で詠まれたことを基に思ったことは、まだまだある。
が、今回はここまで。
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『Made in Y』|吉野裕之のウェブサイトホームページ
日々のクオリア 砂子屋書房 一首鑑賞 吉野裕之
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