時田則雄の短歌より/大空と大地と人間/勁烈なる生命の衝動

土と共に生きては来たが頬つ被りの似合ふ男にやまだまだなれぬ(時田則雄)

KADOKAWA『短歌』
2014.10月号
「のつぺらぼう」より

<わたし>の背景は、舗装されたアスファルトではあるまい。「土」の見える大地を従えていよう。

夙に知られていることであるが、時田則雄は、北海道で農場を経営している歌人である。
これまで「土」にまみれて生きてこられた。「頬つ被り」をしてはいても、顔も、頸から下も汚れっ放しにして働いてきたことに想像が届く。
一言、美しい。
されど<わたし>なる時田則雄は、この美しさを、「まだまだ」であると。「まだまだ」と言いつつ今日もまた、時田則雄は、「土」に立つのである。
美しくも見えるのはだからこそか。

ITの殷盛によって、現代は、半世紀前ならSFの世界でしかなかった環境で働くことが可能である。
そこで手に手を為す仕事は、自分の体をはったものではない。衛生的で、寒暖差に苦しむこともない。
などと言ったら、薄っぺらな労働観になろう。

わたしが夜間に清掃に行くオフィスでは、必ず誰かがデスクで仮眠をとっている。デスクに寝てはいない者とて顔色にはどこか疲労の色がにじんでいる。
働き方改革が推進されてはいるが、こんな光景はまだまだあるし、かつては、わたしもまた、このなかの一人だった。
つまりこうだ。
「土」にまみれて生きる姿の美しさは、したがって、都会の瀟洒なビルで働く人のアンチテーゼとして美化されるようなものではないのである。働くことにおいて、それがいかなるものであっても、程度の差こそあろうが、たいへんでない筈がない。

されど、この一首における、大きく構えれば<わたし>の人生は、また、ご自分がなお未完成であるとの認識は、人生の深処に徹した盛観がないか。
そして、あたかも敗北感が如きも覚えるが、それはなぜ。いや、そもそもこれは敗北なのだろうか。

土と共に生きては来たが頬つ被りの似合ふ男にやまだまだなれぬ(時田則雄)

農業は古来より滅ぶことのない職業である。
稀に都会の人生を棄てて農業に転身する人を見る。軽い気持ちで選んだとすれば農業への甘い美化を不憫に思うが、やってみたい、と強く思ってであれば、わたしは、ひそかに声援を贈っている。
が、わたしが幼かった頃は、こうではなかった筈なのである。
酷いいなかの暮らしに、そこでの不便に耐えかねて都会を志向する、というイメージがあった。現代とて、過疎化という問題は未解決ではないか。

あと五年、いやあと十年は生きるかも… 大空は無限大であるのだ(時田則雄)

黒百合の花は仰げよ 紺青の空に抱かれてゐるのだよ さあ(同)

石くれよ おまえに訊きたいことがある億年前の空の深さを(同)

いずれも
「のつぺらぼう」より

時田則雄の見上げる空は、都会人にはとうてい感知し得ない時間の流れがあるようだ。
時間とは、ほんとうは、こんな空を、静かに流れているものだったのか。
人はいずれ死ぬ。
が、その生き方次第で、この天空に蔽われて、たしかな根を据えている人もいるのだ。
そのことを自分の心臓で感じたことが、これまで、わが人生にどれだけあっただろうか。
ない。

一週間ぶりに乗りたるトラクター両の手ぐいつとハンドル握る(時田則雄)

北海道は十勝平野のど真ん中土をでんぐり返してゐるぞ(同)

いずれも
「のつぺらぼう」より

都市部、人は、疑問もなくアスファルトの上を歩く。
土というものについて、人は、何をどれだけ知っている。
広大な平野に農場がある。ここは、大空の支配を受けていて、自然の脅威は避けられない。
しかし、<わたし>は、「ぐいつとハンドル握る」のである。「土をでんぐり返す」のである。
人の根が脈打つ地下の鼓動が、時田則雄の歌によって、ひとびとの耳に届けられる。

このように生きている人がいるのである。
と言って、それは、こちらの敗北だとか何だとかはまったく関係のない話だ。生きている(生きてきた)位相が全く異なる。
されど、自分もこの境地に到達したい衝動に、凡たる者は、混乱を避けられないのである。せっかく沸騰した生命の衝動を未来に伴って生きることはもう不可能なのか、と。
明るく清潔なビル群の人々には。還暦を過ぎてしまった者には。