千々和久幸の短歌より/妻の異変を話すことになぜ逡巡がある

「カミさんが壊れかかって」別れぎわに言わでものこと口にしたりき(千々和久幸)

KADOKAWA『短歌』
2015.7月号
「それじゃ行くよ」より

「壊れかかって」とは、認知症の初期症状か。何らかの精神疾患か。
認知症のことと思うのが自然かと。
精神疾患があって、それが悪化したことを、「壊れかかって」とは詠まないのではないか。
若い時分には別世界にあった光景が、<わたし>の目の前にも出現した、そのようなトーンを帯びている。
と、読めたが。

<わたし>はどうする。あるいは、どうなる。
どうするもどうなるも、これからますます壊れるに違いない(と、<わたし>は詠んだと思われる)現実的な対応に迫られる。
具体的には介護が必要になる。場合によっては、専門の施設を探すことになるかも知れない。
事は「カミさん」である。この人生をこれまでいっしょに生きてきたひとである。

どなたとの「別れぎわ」か。
ご友人か。それも長きにわたっての。
「別れぎわ」と時間の区分を示していることで、そこまでの時間がたまたまではなかった印象を持つが。
と、読めたが。

筆者(わたくし式守)が、この一首で息をのんだのは、むしろ下句だった。
「言わでものこと口にしたりき」と。
ついに口にしてしまったという悔恨があるのではないか。
そうと思えば、言葉もない。察するに余りある。
そして、考えさせられることまことに多く、筆者(わたくし式守)は、ひどく混乱した。

「カミさんが壊れかかって」と。
聞かせてはいけなかったのか。いけなくはないが聞かせたくなかったのか。
長きにわたるご友人(ではないかも知れないが)であっても、これを口にするのを、そうも避けたかったのはなぜ。

心配させたくなかったからか。
心配されることが心外だからか。
弱音を吐いているかの自身に慙愧を覚えて、お相手の目にそう映ることで(そう映ると決まった話ではないが)沽券にかかわるのか。
そうではない。そんなことではないだろう。
しかし、近況報告の一言程度で口にすることではない。それをこのように口にしてしまった、ということなのではないか。

どれだけの悲しみがあるかとても言葉に包蔵できなかったのではないか。
人は、泣いている姿だけが、悲しんでいる姿ではない。

最終的に、<わたし>は、「カミさん」を口にしたが、どうだったのか。
少しは楽になれたか。
悲哀はますます増幅したか。
わからない。
わからないが、一読者(ここではわたくし式守)は、<わたし>のおもいを半分背負った。
そして、自分がともに生きていることに、背筋をしゃんとのばしたのであるが。

改めて読み返す。
(既に何度も読み返しているが)

「カミさんが壊れかかって」別れぎわに言わでものこと口にしたりき(千々和久幸)