
1
短歌を二首並べる。
次の二首は、筆者に、あれこれ思わせるものがあった。そして、その思うことは、作者への好感を導いた。
限りなく言葉溢るるスマホにも吾の言ひたきもの見つからず(田名網順子)
スマホとふ言葉の密度濃き箱を伏せて眼を緑に移す(同)
いずれも
ながらみ書房『短歌往来』
2026年11月号「化粧」より
2
スマホへの不信感を詠んだのではないのでは。
スマホがかくまで進化していても自分の求める言葉を探し当てられない。
自分の言いたいこと、たとえばここでは歌にしてみたいことがあってとしてみて、その歌作の役に立ちそうな言葉を探してみたが、作者の求める言葉は、天文学的な数の言葉を包蔵しているインターネットにもない。
それを、別の歌において、「密度濃き箱」と表現した。
言葉の前にまず緑ありきで、緑には不足を思わない<わたし>であるようだ。その調べには、緑に癒されてもいようようすがあるが。
3
短歌においてだけではないだろう。言葉を探すことと言葉を生み出すことには断絶があるのである。
スマホの海にお目当ての言葉は見つからなかった。
余人は知らぬが、作者には、所詮、検索されて出たデータに過ぎなかったわけだ。
表現するために言葉を生み出すこととの決定的な違いを、作者は、そうと自覚なさってか否かは知らないが、浮き彫りにしたわけだ。
4
こうは言えないか。
スマホの中の言葉は、既に誰かに消費されている。先人によって記号化されているのだ。
すなわち過去の言葉の集積に過ぎない。
作者の言いたいことは、まだこの世に形を成してはいないのである。まだ、作者の胸の内にある。
具体的にその言葉はこうと挙げられないだけだ。
生の感情のままであり、また、生の感覚のままなのである。
スマホという「言葉溢るる」場所でいくら探しても見つからないのは当然である。作者が求めているのは既製品ではないからだ。自分だけのオリジナルである。
5
二首目に、「伏せて眼を緑に移す」と詠まれている。
この動作には、もとより癒やしもあったろうし、淡い諦念もあったろうか。
が、ここには、言葉を前にした主権の奪還が見て取れないだろうか。
そうではないか。
【スマホを見ている】
が、それは、高密度な箱に閉じ込められた受動的に言葉を詰め込まれた「客体」である。
【スマホを伏せている】
フレームは消えて、世界(緑)が無限に広がっている。
自然は言葉で定義される前の存在そのものなのである。スマホを伏せたことで、作者は、言葉を求めるにおいて、スマホの呪縛から逃れられた。
世界の豊かさ(ここでは緑ですね)を直接受け取る「主体」になれたのである。
6
スマホなる機器には、タイムラインや通知の機能があるが、このまこと便利なる機器は、沈黙が許されていないのである。
表現(ここでは短歌ですね)は、真逆だ。
語彙と語彙の間に沈黙という余白を込める。
そして、外界の緑は、言葉を持たない圧倒的な沈黙である。
7
作者の田名網順子さんが、この二首の歌意に、そうと願いをこめたかどうかはわからない。
わからないが、筆者には、こう読めるのである。
スマホの箱の中の過密な言葉を、作者は、思い切りよく棄てた。そして、言葉のない緑の中へ身を投じた。
言葉のない世界でこそほんとうに言いたい言葉を生み出すために。
表現者として。歌人として。
そこにまこと強固な直観があって。
8
読み返したい。
限りなく言葉溢るるスマホにも吾の言ひたきもの見つからず(田名網順子)
スマホとふ言葉の密度濃き箱を伏せて眼を緑に移す(同)
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