短歌における神との対話/「いきいきと」/竹山広の短歌より NEW!

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こんな一首がある。

切支丹ですと憚らず言ひ得べくなりて信仰のいきいきとせず(竹山広)

柊書房『遐年』
(彼岸花)より

この一首、わかるような気がするのである。わたしはキリスト教徒ではない。が、僭越であることを承知で、そういうことはあるかも、と。

難病に遭って、発症後一年になる。症状はまだ軽微の範囲でも明らかに進行している。
これからの重症化(そして死亡)を思うと、生きていることがばかばかしくもなるし、逆に、残される妻にできるだけ尽くしたい(妻も病あり)ともなる。要は。むらっけがある。

たまたま読み始めた聖書を、いつの間にか、熱心に読むようになった。読んでいるのは福音書が主であるが、いつもイエス・キリストその人を追ってしまう。

そのありようでどうして上の一首が響く。

竹山広さんのこの一首は、胸に刺さったのである。
なぜ。難病うんぬんの背景はあるとしても、上の如き筆者である。なぜ、なぜ。なぜ。

竹山さんは長崎で被爆し、筆舌に尽くしがたい苦難の中で詠み続けた。この歌は「その頃の方が、命がけで純粋な信仰があった」とかなんとかそんな逆説が詠まれたものなのか。

今の筆者に、聖書やイエスは、単なる教養や習慣ではなくなった。難病が抗いようなく進行している受難の中で、文字通り命を支えるための必死な対話の相手なのである。

竹山広さんは、憚らず言える信仰にどこか退屈さを見てしまったのか。必死さがなくなった、というような意味合いのものが。
一方、筆者は、難病の進行への恐怖や妻への愁嘆を、ある種の極限状態として自覚してしまったのかも知れない。上の一首において。わからないが。

生きていることがばかばかしい絶望と妻にできるだけ尽くしたい切望の間で揺れ動くことが、「いきいきとせず」と響き合ってしまったのは確かか。

理不尽な運命を背負わされれば、人は、理屈ではなく、同じように苦しみを背負う「個」を求めてしまうものらしい。
組織としてのキリスト教ではなく、イエス・キリストその人を追ってしまうのは、彼自身が苦難の中で孤立し、それでも愛を説いた孤独な個人だからだ。

竹山広さんの歌が「いきいきとせず」と結ばれたのは、ある種の逆説的な嘆き。
ひるがえって今の筆者は、皮肉にも人生で最も生への問い「信仰」が「いきいきと」している。

イエスほどの人だって死は恐怖だった。
杯(死)を遠ざけてほしい、と神に汗を流して祈った。されど、それが神の意思ならば従います、と。この“ゲッセマネの祈り”の場面を、筆者は、何度も読み返している。

イエスが「神の子」としてではなく、現代のわれわれと同じ弱さを持つ一人の人間として苦悶する姿は、聖書の中で、最も人間らしい。それゆえに最も救いを感じさせてくれる。

「この杯(死)を遠ざけてください」という本音を神にぶつけた直後に、「されど、わたしの願いではなく、御心のままに」と続けている。この「されど」は、筆者の「むらっけ」に通底していないか。

余命が減ってしまったことは、最終的には、本人にしか為せない孤独な格闘だ。しかし、2000年前のイエスもまた、同じように孤独と恐怖に震えていたのである。その事実は、筆者(わたくし式守操)の傍らに、イエスをそっと座らせてくれる。

病ある(子もいない)妻を残すなんて神もむごい、と憤ること少なくなくあるが、そもそもそれは「神」ではないにしたって「人間を超えた存在」は想定しているからだろう。何も信じていなければ、ただの確率論や不運で終わりなのである。

しかし、わたくし式守は、「神」を相手に「むごい」と憤っている。これは、立派に神との対話(格闘であるが)を始めているということになるか。

竹山広さんの「いきいきとせず」。自分の現在と将来について多くを考えさせてくれた。

頭も尻尾もないことを書き留めたようだが、“神との対話”について書き残してみたく、しかし、今回はここまで。

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(21.05.04現在)


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