柴田葵の短歌より/「実際」の増幅/それは衒われた奇でなく

あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている(柴田葵)

『母の愛、僕のラブ』

小学館『短歌のガチャポン』
穂村弘より

作者には失礼であろうところをバカ正直にナンであるが、わたしは、『母の愛、僕のラブ』を通して読んでいない。入手していない。もちろんいずれ絶対手に入れる。
柴田葵さんは、もうあちこちでその歌が引用されている歌人なので、他の作品も知らないではないが、『短歌のガチャポン』(穂村弘)を典拠に今回はこの一首を。

短歌において「実際」って語彙がこんなにうまく使われた例を他に読んだことがない。
と言うか、「実際」は、歌の中でそれこそ実際に使われる語彙だろうか。
短歌の中で「実際」を使うのは難易度が高くないか。説明的な語彙なので。
でも、この一首の「実際」は、こうも新鮮だ。ひいては、<わたし>の新しい立ち上げ方なんじゃないか、これは、と思った。

解説と言うか評と言うか、穂村さんは、この一首に、こんな趣旨の文章を載せた。
もう二度と会えないのかと思ったら生きているという裏切り。そんな趣旨。
確かにこれは驚くべき裏切り。しかし、素敵なズッコケ感だ。

もう二度と会えない、と。
そんな場面はやはりかなしくせつない。が、人生は、そんなことを積み重ねて、人一人の世界は厚みを増してゆくし、人間観も深みを増すのではないか。
それを文学で(ここでは短歌で)表現しないでいられない、とすれば、その動機は、まことに純潔だ。

ところが「友」は生きているそうな。
それも「小田原」なんて土地に。いかにもそこにいそうな土地ではないか。
この一首に相手と自分が会えないでいる関係性はない。たとえば友が死んでしまってもう二度と会えない悲痛な背景とかはないのである。
きっと元気なんじゃないの、「あの友」って。

この一首にあるような平凡(と、決まった話ではないが)な二つの人生を隔てる時空は何もかなしみばかりではないわけだ。
これが小説であれば、物語が進む過程で、主人公(一人称でも三人称でも)に、「小田原」の「あの友」との絆が見えてくるのであろうが、短歌であれば一瞬だ。一瞬で無限とも思える価値を発見する。それも「実際」なんて語彙を基幹部に。

てことは、今日は会わなかったが明日にはまた会える、そう言ってよければ、会うことにハードルなどない二人の、そのそれぞれの心に存在している友も、悲劇性がマックスの心の友と同じようにもっともっと慈しむべきことだったのだ。
人間関係の観念が、柴田葵さんによって、わたしに、ここに更新された。

実際か~~。
驚いたな~。