短歌で国家の心臓部を表現する/日本銀行/阪森郁代さんより

目安: 約3分

どちらへゆくも気の向くままを良しとして日本銀行目の前にある(阪森郁代)

ながらみ書房『短歌往来』
2026年5月号
「自然詠を詠む・撮る・描く
(大阪市北区)」
(流れゆくのみ)より

筆者(わたくし式守)は、東京日本橋の日本銀行本店のすぐ近くで勤務していたことがある。
経理課(財務経理本部なんたらかんたらなんて部門)に配属されていた。日銀本店に入ることもあった。

海外に現地法人を設立するとなれば、外為法に基づいて、日銀の審査(承認)が要る。海外旅行のために日本円を外貨に両替するようなわけにはいかない。

さて、この一首は、大阪市北区の吟行詠である。
自然詠にカテゴライズされるのか、都市詠にカテゴライズされるのか、それはどちらとも筆者には言いかねる。
が、「日本銀行目の前にある」からとて社会詠や時事詠ではあるまい。

歴史的・観光的建造物であれば、他にもいくらだってある。
だからと言って、筆者は、いちいちそこで足を止めない。それが、日銀となると、足を止める

この一首は、あくまで短歌で、あくまで文字の上なのに、ほら、やっぱり足を止めた。

もっとも、この歌の「日本銀行」は、大阪支店である。
が、支店であっても、日銀の大阪支店は、一般の銀行の本支店の関係性とは異なるところがある。
日銀大阪支店は、西日本の金融全体の母店で、本店にとっての下位組織のようでいて、本店の政策決定のパートナーでもある。
そこが、一般の銀行の本支店間とは異なるところだ、

本店と同じ力でわが足を止めもしよう、というわけか。
どうだろう。

読み返す。

どちらへゆくも気の向くままを良しとして日本銀行目の前にある

「気の向くままを良しとし」たことで、作者の阪森郁代さんは、今、「日本銀行目の前にある」のである。
「気の向くまま」でいて、なにやら必然とも思えてくるのである。
筆者においてだけか、これって。

上句は、「どちらへゆくも気の向くままを良しとして」と。
極めて個人的な、それゆえに自由で、まるでどこへ流れてもいい弛緩した時間が流れている。

しかし、下句はどうだ。
突如「日本銀行目の前にある」と。

ただの建造物ではなく国家の金融秩序そのものの堅牢な印象が強化された。

それでいて、「日本銀行」が、風景として溶け込んでもいるのはなぜ。

これがメガバンクの本店であれば、中の行員の生活、給与、過酷な業務、そのような生々しい人間の営みが透けて見えよう。
日銀はそうはならないのだ。
個々の行員の顔は隠されていて、ただただ一つの巨大な「機能」あるいは「概念」としてそこに鎮座している。

そうではないか。
日銀や財務省の人間でもなければ、だいたいは、そう眺めてはいないか、日銀を。

阪森郁代さんは、日銀を、人間が揉まれ合う一組織としてではなく、山や川のように、そこにあるべくしてある風景として無意識に五感で捉え得たのではないだろうか。

ここ、もう少し補足したい。
いかにも奥深そうな何かを狙って語彙を斡旋していないではないか。
あっ、と気がつくと、そこに、ただの建造物では発し得ない存在の力が聳えていた。それを、写生(さればやはり自然詠か)したからこそ、かえって超然とした佇まいの日銀が際立った。

筆者が日銀本店の前を通る時のように、短歌という文字の上でも、「日本銀行」の前で止まらざるを得なかった理由は、かくのごとしだった。
なのではないか。

読み返すことこれが最後だ。

どちらへゆくも気の向くままを良しとして日本銀行目の前にある

中之島界隈か。
阪森郁代さんは、ご自身でそう詠まれた通りに、まことに「気の向くまま」に歩いておられたのであろう。
その自由の境界線として、国家の心臓部が、意識に静かに投げ込まれた。

語彙の斡旋に苦しんだ痕跡の見えないこの歌を、筆者は、まことに秀歌だと眺めてしまう。