
1
現代では読まれなくなったが、文学史に、ショートショートの作家として、山川方夫の存在がある。
星新一で知られるショートショートの、あのショートショートである。
山川方夫には、『予感』という、こんな掌編がある。
バスに乗っていた夫婦がいやな予感がして、夫婦は、そのバスを降りることにした。予感は的中した。バスは大きな事故に遭った。が、乗客はみな無事だった。途中で降りたばかりの一組の夫婦は、転倒したバスの下敷きになって亡くなった。
2
こんな皮肉な話は、たしかに実人生にあるとは思う。一方で、体調が悪かったので飲み会を欠席したことで火災事故に遭わずにすんだ、とかね。
人間万事塞翁が馬は世界の真理である。
が、わたしは、先の『予感』のような話は、はっきりと嫌いである。いやな予感がこう的中したと?
人をバカにするにもほどがある。いったいこれは劇(ドラマ)なのか。
そうなのだろう。が、わたしの文学観に照らせば、人間には手を出せない世界の者の手に弄ばれた、ただそれだけのことを、ただただどんでん返しのスタイルに乗せてみただけ、との評価しかできない。
3
戦争(あるいは紛争)の被害者は、こうではない。
人類の愚行の犠牲者である。
このままではいけないと誰もが知っているのに、人類は、戦争を起こすのである。
天災の被災者はどうか。
人間は、災害にやすやすと敗れないように、科学の発展に努めてきた。が、まだまだ天の力に及ばないのである。
4
終バスは停車場ごとに下ろしゆく最後の吾を乗せてゐるのみ(佐田毅)
KADOKAWA『短歌』
2015.7月号
「蠅を追ひたし」より
何かこう暗示的な歌に読めなくもない。
措辞 | 置換 |
---|---|
終バス | 人生の晩節 |
停車場ごと | 人生の節目々々 |
下ろし | 亡くなる |
最後の「下ろし」であるが、「降ろし」の誤記ではない。
自ら降りたのではない。バスが下ろしたのだ。
と、読めた。
老いれば、伴に生きたひとびとの訃報に動揺することが、年々と増えてくるものだ。心に死の影がさす。その訃報は、淡い諦念に縁どられて、いつまでも頭から離れない。
この一首は、他にどのような“読み”があるのか知らないが、それがどのような“読み”であっても、『予感』的姿勢の文学とは根本から異なる。
5
次の一首はこうだ。
終点のバスストップを降りはじめ転びさうになる七十路の膝(佐田毅)
同/「蠅を追ひたし」より
加齢による不可避の膝の受難に抗っておいでである。
わたしは、この一首の<わたし>よりもまだ若いが、膝が痛むこと少なくない。「降りはじめ」で「転びさうになる」ことに一瞬目を閉じる。
6
<わたし>の日々に、転倒の予感は、常にまとわりついていようか。
一つ前の「バスストップ」の方が安全に自宅に帰りつける、と予感したことはないか。いや、一つ前の「バスストップ」で降りたばかりに、<わたし>は、転倒してしまうかも知れない、と予感したことはないか。
予知能力というものが人間にはあるとは思う。殊に、優れた詩人なんて人種には備えられているものとも思う。思うが、しかし、予知能力自体が、文学的な所産だろうか。
予知能力によってたとえば痛む膝はどうなってしまう。たかだか停留所から自宅までの徒歩に難儀して、ではこれからどう生きる。辛いだけしかないのか。
辛いどころではないことが待っているかも知れない。その覚悟はできているか。
人生の皮肉など所詮は文学ではないのだ。ただの嫌味と言う。
とまで言い切れまいが、わたくし式守には、先の『予感』程度で、この人生が変わることがないのであるが。
と、強く(まことに強く)考える者なのであるが。
されど……、
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終バスは停車場ごとに下ろしゆく最後の吾を乗せてゐるのみ(佐田毅)
終点のバスストップを降りはじめ転びさうになる七十路の膝(同)
たかだかバスに乗っている。これからバスを降りようとしている。
たったそれだけのことに、この二首は、老いに、ひいては死に抵抗する底力が潜んでいないか。
わたしに残されている未来は、ここに、灯された。
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