
1
ろれつのまはらなくなつた舌が呼んでゐるのは死者たちの名に違ひない(武藤雅治)
桃谷舎『あなまりあ』
(口も目も暗いくらい穴だ)より
2
今にも死にそうな人の話の気もするし、既に死者の話のような気もする。
死後の世界から帰還した人の話の気もする。
恐怖の歌のようでいて、人間を超えた世界と接続したおもしろい歌にも読める。
これが短歌である境を極めた破調は、一読後の混乱を、一過性のものにしなかった。この混乱こそ、この歌の核心か。あちらとこちらの境界が揺らぐ。
3
「舌」という器官の自律性がある。
主体は人間ではない。「舌」なのだ。
意識が混濁し、もはや自分の意思で言葉を操れなくなって、肉体の一部である「舌」だけが勝手に動き出したように読めた。
あたかも、現世の論理を捨てて、「舌」が、勝手に死者と交信を始めてしまったかのように。
4
「ろれつ」の崩壊は現世の論理からの逸脱のようだ、
「ろれつがまはらなくなつ」たことは、通常は、機能不全や衰退である。
が、この一首は、日常的な意味の呪縛から解放された表現であろう。
普段の生活の言葉は、社会の一構成員として整えられて流通する。それが崩壊すると、「死者たちの名」を呼ぶらしい。
その資格が獲得された、と考えてみるのはどうか。逆説的な祝祭性が舌に帯びないか。
5
「死者たちの名」と詠まれている。
「死者の名」ではない。「死者たち」と。
複数形なのだ。この点は重要だ。
特定の誰かを呼んではいない。膨大な死の記憶に呼びかけているような。あるいは、その列に加わろうとでもしているような。
これはもう点呼に近い。
この舌の主は、死者たちの世界に、自分の場所を探しているのか。
6
この一首がわたしにとどめをさしたのが、「違ひない」との断定である。
「呼んでいるやうだ」ではない。「に違ひない」と強く断定している。
その様子を傍らで見守っている観察者の確信がここにある。
生死の対称性への峻烈な諦念と畏怖。
7
読み返す。
ろれつのまはらなくなつた舌が呼んでゐるのは死者たちの名に違ひない
「ろれつのまはらなくなつた舌」は、生者に不可侵であるはずの死の領域と接続した。
筆者は、難病に遭って、発症後1年になる。
何はさて死を考えることが増えた。
そのような私的な背景あって、この歌を読み返すと、人間を超えた世界の輪郭が、一瞬、生々しくこの目に見えた。しかし、それは、痛ましさより崇高な姿として目に映ったのである。
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