短歌の生老病死/精神の自由は奪われない/武藤雅治の短歌より

読む目安: 約3分

にんげんとしていきてゆくくんれんはつづけなければどうなるのだらう(武藤雅治)

桃谷舎『あなまりあ』
「なにかが爆発する恐れに」より

社会の中で、人間として生きるためには、訓練が要る。
少年少女から成人して、社会の中で、やがて中堅どころとなる。そこでは、最低限の道徳というものがある。また、法を犯せないとかそういうことも。

要するにこうか。
本来は野生のままの人間が、文明社会で、いかにして善良な一員になればいいのか。

そのような人間のプロセスを、哲学は、非常に大きなテーマにしている。
筆者に印象的なものを2つ。

「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」

カントによれば、人間は、生まれ持ったままでは、ただの動物だそうな。教育という訓練(道徳化とか規律化ですね)を経て初めて「人間」になれるのだ、と。

「植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる」

ルソーは、子供を、社会の型にはめ込む従来の教育を批判して、一人の少年(エミール)がどう成長すべきかを論じた。
最終的に、道徳や法律の意義を理解して、彼は、社会の中で自由な市民として自立する。

武藤雅治氏がこの一首で問いかけた「どうなるのだらう」であるが、筆者は、人間でいられなくなると読んでみた。
大胆な破調によって、より静かに、人間なる存在への警告がある。

訓練を続けなければどうなる。まことにどうなる。
わからない。

されば、逆にこう考えてみるのはどうか。
訓練(ここでは学びや内省なんてほどの意味で)を続ければ、人間は、人間として生きられるのでは。ただの野蛮や放埓ではない真の自由を獲得できるのではないか。

病の問題についてはどうだろう。

筆者は、パーキンソン病関連疾患(診断未確定/発症後1年)である。日常生活は維持できているが、また少し進行した。
水圧の大きい中で身動きしている体感がある。

体が思い通りにならなくなる過酷な状況において、それでも損なわれない人間の本質をどう守るか、哲学は、どう向き合って来たのか。哲学は、その知恵を、筆者に授けてくれるのか。

古代ギリシャのストア派の哲学者エピクテトスは、自身も足に不自由を抱えた奴隷の出身だった。エピクテトスは、世の中を、「自分がコントロールできること」と「できないこと」の二つに分けた。
そして……、

「病気は身体の障害ではあるが、意志の障害ではない」と。

病気や身体の衰えは、自分ではどうにもできない「自然の摂理」である。しかし、その状況をどう受け止め、どう心を保つかは、自分にだけゆだねられた自由である。
病は、精神の自由まで奪わない。

読み返す。

にんげんとしていきてゆくくんれんはつづけなければどうなるのだらう

「どうなるのだらう」と。
そこを自分に問う意力は、絶望に対する最大かつ最強の抵抗ではないか。