ペンギンは考える葦だった/病になって/武藤雅治の短歌より

読む目安: 約3分

飛べないのか飛ばないのか考へ続けてゐるペンギンがゐるかもしれない(武藤雅治)

桃谷舎『あなまりあ』
「なにかが爆発する恐れに」より

「考えること」こそが、人間に残された最後の、そして最強の自由である――。
筆者(式守)は、確信に近いものとして、そこに辿り着いた。
パスカルが言った「人間は考える葦である」という言葉はほんとうだった。

肉体は自然の力に翻弄される弱い存在であっても、自分が置かれている状況を「考える」ことはできる。
人間の尊さとはここにあるのではないか。

パーキンソン病関連疾患(診断未確定/発症後1年)である。
日常生活は維持できているが、また少し進行してしまった。水圧の大きい中で身動きしている体感がある。こうなるともう、ゆくゆくのことに恐怖が生まれてもくる。
恐怖があることを恥じてはいない。が、ここでどうするか現実的な対応では、身体的なことよりも精神的に萎えるのである。
何はさて、なぜオレよ。

一般的に、ペンギンは「飛べない」鳥だと決めつけられている。事実、大空を自由に飛び回るペンギンはいない。
武藤雅治さんは、そこに、「飛べない」のではなく「飛ばない」という可能性を投げ込んだ。

病によって「できなくなること(飛べないこと)」がこれから増えてしまうだろう。それでも自分は「飛ばない」のか、あるいは、「別の飛び方はないか」意志の側から問い直すことを促してくれた。

この一首を、身体的な制約が思考の自由へと逆転させる試み、と読んでみるのはどうか。

読み返す。

飛べないのか飛ばないのか考へ続けてゐるペンギンがゐるかもしれない

ああ、
破調のまた効果的なこと。

この一首のペンギンは、「わからないこと」を抱えたまま佇む美しさがある。重く自分を縛り付ける大地に吹く風を、拒絶しない威厳がある。

「ゐるかもしれない」という結句。なんと絶妙でまた魅力的な結句だろう。
真実はペンギン本人にしかわからないのである。

この一首を、能力と意志の境界線を揺さぶる試み、と読んでみるのはどうか。

わが病、診断はまだ確定していない。が、確定とやらがいかなる名の病であろうと、不自由な肢体、余命の短縮は避けられないようなのだ。
(ったくなぜオレなのよ)

先が見えない不安な状況を、「飛べない」とはせず「別の飛び方はないのか」、これを考えている最中の者として眺めてみれば、このペンギンは、筆者(わたくし式守)に憧れの存在になる。

読み返す。
これで最後だ。

飛べないのか飛ばないのか考へ続けてゐるペンギンがゐるかもしれない

わが残された人生を支え得る歌だ。
武藤雅治さんに心からの感謝を申し上げます。

このペンギンが、実は、「自分は飛べないのだ」と嘆いているとする。
気の毒な話だ。それはそれでケアが必要で、が、ここではそっちの話は措いておく。

この一首のペンギンはもはや,

このペンギンはもはや、単なる動物ではない。己の生命を慈しむ哲学者だからである。

「考えること」とは、人間が、どんな状況に身を置いても、それだけは許されている完全に自由のものである。どこかの困った国でもあるまいし、わが自由は守られていて、これからも守り続けなければならない。

たとえ翼を動かせなくても、常に、思考の海を深く潜っていたい。