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教師による体罰はあっていいのか。
国家は、その結論を、既に出している。教員が体罰を加えることはできない、と。
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
学校教育法
第一章 総則
第十一条
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しかし、体罰は、今も根絶されてはいない。
令和2年度における体罰の状況(国公私立合計)
対象
国公私立の幼稚園(幼稚園型認定こども園を含む)、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校(通信制を含む。)、中等教育学校、特別支援学校(幼稚部を含む)
文部科学省
発生件数
485件(令和元年度・685件)
体罰の実態把握について(令和2年度)
令和3年12月21日(火)
より
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場所を教育現場から日常の風景に移して、人が、誰かに暴行を加えたとする。
たいへんな騒ぎになる筈だ。事実、やはり国は、法律で、これを厳しく防止しているではないか。
人々の人権が不当に侵害されないように、と。
暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
刑法
第二十七章 傷害の罪
(暴行)第二百八条より
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こんなものが生ぬるい事例(私的解釈です)もある。
当然、量刑は、これをさらに重くする。
人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
刑法
第二十七章 傷害の罪
(傷害)第二百四条より
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懲役の判決を受けることもある行為(暴行や傷害)が、教育現場で、今もなおあるわけだ。
学校教育法の、第一章の、第十一条に、体罰はだめだよ、と言われていたって。
6
教員による暴力と一般人の暴力は何が違う。
単純に、まことに単純に、これを比較すれば、教育現場か否かだ。もっと言ってしまえば、相手が未熟な子どもか否かである。
それを、教育の名のもとに、暴力が容認されることがある。
校則を守らない子を竹刀で打ち据えて、ご自分は、国家の法を守っていないわけだ。
そのような欺瞞が教師の側にあるのに、そこを、教師こそ問わない。
「宗光」は星雲寮の備品にて副舎監長モリヤマの武器(森山良太)
踏ん張って立つはおのれか宗光か生徒の前に仁王立ちせり(同)
いずれも
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
この「宗光」の是非に、この「宗光」に欺瞞があることに、教師であり、かつ歌人である森山良太は、苦しむ。
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わたくし式守は、体罰の必要性を、絶対に認めない者であるが、一方で、こと体罰の問題で、教師を不憫に思うこともある。
教師たちみんながみんな金八先生でないように、生徒たちみんながみんな、話せばわかる子たちばかりではあるまい。
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話せばわかる子はいい。よく言って聞かせて、その子の誤りを、最終的には、その子本人の力で理解させる。その手助けをする。待ってあげる。
しかし、いくら言っても、それはちゃんと懲戒の範囲で諭して、であるが、それでも事の重大さが理解できない場合は?
理解しようともしない子には?
やはり体罰?
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理解しようともしない子なんていないと?
いる。
いる、と言える学校を、わたしは出ている。
どのような学校?
進路変更せまる教師のおほよそは「教育困難校」にかつてゐし者(森山良太)
入れ替はり立ち替はり謹慎となる生徒一日もおかず師走となりぬ(同)
いずれも
ぶどうの木出版『西天流離』
(ヘドロ)より
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そんな学校なら体罰?
人格をヘドロと言ひてためらはぬ体育教師の口ヒゲ憎む(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(ヘドロ)より
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守らざれば寮を去るべしと追ひつむる喫煙やめぬ女生徒二人(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
素行のいい子があつまる学校の出の人に真の実感はないだろう。
学校によっては、こんな程度でない子が、掃いて捨てるほどいることを。
やっぱり体罰しかない?
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「寮則を犯せる者は打ち据ゑよ」一語なりけり引き継ぎの言葉(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
どう考えても間違っている、と思うし、また、この「一語」に疑問を持っていない人が教師にいる現実に、背筋を寒いものが走るが、この結論に達した過程が教師にある現実を、体罰は避けられない、との結論に至った、それだけの過程を軽視しては、教師こそ気の毒ではないか。
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体罰は認められるか。
認められるわけがない。
それは、国家が、体罰はダメですよ、と言っているからではない。体罰が愛の鞭など所詮は詭弁でしかないのである。
正座せるわが腹を蹴りスリッパに頬打ち据ゑし教師忘れず(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
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ぶどうの木出版『西天流離』は、著者・森山良太氏の、何も教育問題だけを扱った歌集ではない。
が、森山良太の手による、この歌集『西天流離』に、「体罰」なるを正当化してはいないが、学校教育法における「懲戒」の程度を、弾力的に観察して、教師として、その正解は何か苦しむ姿がある。
体罰は要か不要か たたかはし宿直の夜を眠らず語る(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
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教師・歌人としていかにあるべきか、子どもたちにどうあるべきか、そこにある現実をご自分の良心に照らして、森山良太は、苦しむのである。
体罰は否とする結論を、ご本人の内に既に得てはおられるが、現実的な対応として是とする考え方もあることに、大森良太は、苦しむのである。
大森良太なる歌人が、偽善をきっぱりと切り捨てて、この人生を羞じている姿が、この歌集『西天流離』の随所にある。
言論誌で得られない光景が、この歌集『西天流離』の随所に映し出されている。
宗光はもはや握らぬ 人格と人格の激闘が教育ならむ(森山良太)
ぶどうの木出版『西天流離』
(副舎監長)より
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むろん教育の、それもその現場に、理想論など何の役にも立たないことがあろうかと。
志ある教師の方々、日々、まことにおつかれさまです。
かくして、わたくし式守に、教育者への信頼が、森山良太の短歌の力によって、ここに裏書きされた。
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