
1
ガテン系のお仕事のわたくしシキモリ、自販機ではBOSSを買います。
BOSSのCMは今でもおもしろい。
BOSSのCMに好感を持つのは、終始一貫して、働くひとびとを応援しているからである。
それは、いつの時代でも、日本人に、ありふれた美徳なのであるが。
2
ハリウッドの高い役者をこんなCMに使うなよ、と思った。
バブルが過去になっても、この国は、依然としてお気楽だ。
「ただ、この惑星の住人は、なぜか上を向くだけで元気になれる」だと?
いいのか、トミー・リー・ジョーンズ、こんな台詞をアテレコされて。
いいのである。
トミー・リー・ジョーンズは、八代亜紀の歌に泣く。ああ、あの哀愁よ。
このCMで、トミー・リー・ジョーンズが、オスカーを獲得することなどないだろう。だが、極東の清掃作業員の真の心のBOSSになった。
慕わしい。なんて偉大な俳優だ。
赤塚不二夫の心のボスよりも心のボスになった。
BOSSのCMは、ありふれた美徳の映像で魂の呼吸を肌で感じることができる。
この国で生きることに人間らしさを失わないでいられる。
3
宝くじに当たる確率は、万人に平等である。
1等の確率は1,000万分の1である。
なのに、この国のひとびとは、宝くじを買いたがるのである。それは、見ていて、あたかも人生を試しているかの姿である。
宝くじ見事にはづれ新たなる不幸生まれるこの星の下(森藍火)
本阿弥書店『歌壇』
2017.11月号
「乾くてのひら」より
はずれてしまったらしい。宝くじに。<わたし>がはずれたのか。
まあそう読むのが順当か。ザンネン。
しかし、不幸の指数は、さして高くない印象を持つ。
「この星」レベルではずれたことを思えば、たかだか宝くじ、また次がある、とも思えてくる。
「見事に」との措辞がある。はずれても、またはずれても宝くじを買う心を慈しんでいるのではないか。
宇宙人ジョーンズがこの惑星(日本)の歌人になればかくの如くに。
4
生きてゐることの不思議を問ひてくるお暇な人にメールを返す(森藍火)
「同」より
わかる。まことに「お暇な人」がいるのである。
が、わたしもそうなのである。「お暇な人」なんて言われるとけっこう傷つくのである。
してないけど、生きている不思議メール。でも、それに近いメールはたまにするし、来れば、「メールを返す」のである。
こんなテーマには黙っていられないからではない。無視してはお相手を傷つけてしまうからでもない。うれしいからである。むしろお相手にこっちがなついちゃって、せっせと、キーを打つのである。
そして、しばしおどおどする。このメールでまた一人、人を失うのではないか、と。
が、森藍火は、「メールを返す」お人だった。
この歌は、実は、ご自分も「お暇な人」であることを表現した一首なのかも知れない。
きっとわたしよりずっといいメールをなせるに違いない。
5
わが気質とくとく自慢せしのちの乾くてのひら今持て余す(森藍火)
「同」より
連作のタイトルはこの一首から採られた。
乾いた、とあるからには、汗ばんでいたのだ。
自慢するからには、自慢するだけの用意が、ご本人におありだったのではないか。
が、「とくとく自慢」することに、知らず知らずに精神的な圧があった。
と読めなくない。事実、ご本人も、ほれ、「持て余す」と。
ご自分の自慢大会にこうも内省のある一首を詠めれば、生きている不思議メールは、きっといいものに違いない、とも思える次第。
6
こんな鏡の歌がある。
ひたむきに鏡をみがく底ごころ得堪えぬ我にふれじと磨く(遠山光栄)
<『杉生』(昭和18年)>より
いい歌だ。
このように鏡を詠んだ秀歌は他にもある。
が、森藍火の「鏡」は、このような「鏡」と質感が異なるのである。
近づきて優しく笑ふわたくしを一日の果ての鏡に贈る(森藍火)
「同」より
鏡には鏡の一日があった、とのニュアンスを帯びているところに、ご自分を贈るのである。
鏡に能動的な<わたし>なのである。
されど誰が知る。
「優しく笑ふ」のは、森藍火なる<わたし>の、真のお姿か。あるいは、一日にくたびれ果てたのを虚飾しているお姿か。
7
世は短歌ブームとか何とか騒がしいことである。
しかし、ここに引いた作品群は、いずれもブームの潮流に乗る歌たちではない。
ブームとやらに容易に巻き込まれることを避けて、本来、短歌とは、人の心に幾重あるかを剔出する文学であることを、森藍火に深く知るわたしである。
8
9
「宇宙人ジョーンズ」について説くサイトはたくさんありますが、わたくし式守にはよかった、その一例として、上のリンクを張りました。
10