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聖杯に血は注がれていつしらにきみかヘリ來む時にあらずや(水原紫苑)
ながらみ書房『短歌往来』
2025年11月号
「武勲」より
2
「復活」への確信か。
聖書によれば、イエスは、十字架で血を流して死んだ後、三日目に「復活」した、と。
聖杯に血が注がれている(=犠牲が捧げられた)状態は、その後に続く「死からの生還(かへり来む)」の前兆である。
と、読めた。
血が満ちたのである。されば、あのお方はいよいよ復活する、と。
奇跡を待望する緊迫した祈りと読んでみたのであるが。
3
あるいは「再臨」の予感かも知れない。
世の終わりにキリストが再び地上に現れる「再臨」を詠んだものなのかも知れない。
聖餐の儀式(血を飲むこと)は、イエス・キリストが再び来る日まで続けられる。
血が満ちた聖杯を前にして、「いつしらに」、つまり”いつのまにか”、ついにあの人が天から帰ってくる。その時が来たのだ、と。
世界の終焉と救済を予感した歌として詠まれたものなのかも知れない。
4
「いつしらに」血は満ちて、それに応じるように「きみ」は帰ってくる。
人智を超えたプログラムはこれにて完成。静かで、しかし、抗いがたい聖性。「きみ」の存在のこの重み。
5
水原紫苑さんのこの一首は、わが残された人生における傑作になった。
わがこととして味読するに至った。いかに生きるか。
パーキンソン病関連疾患(診断未確定/発症後1年)。症状がまた少し進行した。
医師の手によるプルテストでは、既にして、たちまち崩れてしまう。歩行等日常生活はまだ維持できているが、時々、水圧が大きい中を動いている体感がある。
初期症状にしてこれである。これからどうなる。
聖書を(福音書を主に)本格的に読み始めてみて驚いた。
イエス・キリストの物語(圧倒的な人生だ)が、これからの重症化への恐怖の支えになることに。
余談でしかないが……、
ジョン・レノンは、「ビートルズはキリストより人気がある」という発言をして、現代で言えば”炎上”の過去がある。が、後に、「私はキリストの熱狂的なファンの一人だ」と(キリスト教の組織には批判的だったが)語っている。
そう「ファン」。この「ファン」なる語感。わかる。この気持ちが、今、筆者にほんとうによくわかる。
余談の余談……、
チャップリンは、イエスを、「人類史上、最も偉大な反逆児であり、愛の革命家である」というニュアンスで語っている。
この言葉にも、筆者は、膝を叩く。
さて、
水原紫苑さんのこの一首を基に、わがこととしてイエス・キリストに接近してみたことを以下……。
ここでいったん読み返す。
聖杯に血は注がれていつしらにきみかヘリ來む時にあらずや
6
「聖杯」をわが体として読んでみる。
キリスト教において、体は、「聖霊が宿る神殿」である。病による不自由さとは、身体のただの「故障」ではない、としてみる。われもまた血に満たされようとしている聖杯なのである、と。
水圧が大きい体感は、そこに、聖なる血(イエスの生命力や受難の重み)が、わが体に注ぎ込まれている体感としてみるわけだ。
強弁だろうか。
かも知れない。が、これは読者(わたくし式守という筆者であると同時に)の自由として。
7
「血」を受難の共有として読めないか。
福音書のイエスは、自らの肉体の崩壊を避けることなく、それを、他者のために差し出した。
病による恐怖や苦痛を、イエスの十字架の苦しみを自分も分かち合っている、としてみてはどうか。
聖杯に満ちる血は、イエスの痛みである。が、わたし自身の痛みでもある、と。
8
「きみかへり来む」をわが命の再生としても読んでみたい。
「きみかへり来む時」を、ゆくゆくさらに重症化してしまうもっと先(ありていに言えば死後だ)に置いて、人智を超えた力による、新たなる自分の生命が獲得されると考えることはできないか。
福音書が描くイエスの死は、その先に、必ず「復活」がある。
症状の悪化を、聖杯に血が満ちていく(=上の「かへり」の如きもの)の過程と捉えて読むのはどうか。
されば……、
されば、この生命の終焉は、恐怖の対象などではなくなる。「いつしらに」再生する約束として響いてこように。
9
詳しい人には、臍で茶が沸く話でしょうが、聖書の中で、筆者が何度も読み返す場面がある。
長血を患う女性がいた。
たくさんの人が行き来する通りで、イエスを見つけて、ほとんどもみくちゃにされる中で、イエスの服の袖に指をかけた。
「誰かがわたしの服に触れた」
弟子たちは、これだけおおぜい人がいればそんなこともありましょう、と言ったが、
「自分の体から徳が出てゆくのがわかった」
(マタイ9・18-26/マルコ5・21-43/ルカ8・40-56)
今わたしを圧している体感がその群衆だとして、群衆の中にあっても、わたしの内なる祈りが伝わる人には伝わる。
と、考えるのは都合がよすぎるか。それこそ強弁に過ぎない考え方になってしまうのか。
10
「きみ」を、聖書の外の筆者に置いてしまえ。今も伴に生きている人がいて、と。
筆者と伴に生きている人は、「きみ」=筆者との再会はある。それは、「いつしらに」訪れる。
「いつしらに」……。
人智を超えた聖なる時間。
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滴り落ちる血の「赤」は、苦痛の果てに約束された再会を、確信に導く色なのではないか。
わたしに残されている時間を潤す恵みの色である。
あくまで心象内のことではあるが、祈りの指先さえもいつしらに血に染めて、この生命は、誰かに残される。その誰かは筆者をその人生にかけがえのなかった人としてくれた人。
信徒でもない者がこれは不遜になってしまうのか。
が、筆者は、そう考えたっていい話だと思えるのであるが。
何よりイエス・キリストその人が、ああ、そう考えたのならそれでいいんだよ、と言ってくれるお人だと思えるのである。
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