短歌を読む価値/くりはらさとみの短歌/マジックリアリズム

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道路にはたくさんの羽が散らばってアスファルトってハト食べるんだ(くりはらさとみ)

『ダ・ヴィンチ』25.02月号
「短歌ください」(自由詠)
穂村弘・選より

雨で今、街は深海。ボクたちはスマホで顔を照らし合う海月(同)

東京歌壇25.10.19
東直子・選より

蓋を開けカップ麺からたちのぼる虹の根元を箸でつまんだ(同)

読売歌壇25.09.22
俵万智・選より

いずれも、アスファルトに、雨の街に、カップ麺に、これまでそうと思っていないかったものをそうと思わせる表現になっているかと。

これをファンタジーなんてカテゴライズするのは容易であるが、でも、ファンタジーなのか、これは、とも思う。

では何?

上三首、いずれも現実にない世界ではない。実見したものだ。全くの空想ではないのである。
が、日常のありふれた場面が非日常になって、人一人の心を浄化させてくれる点で、ファンタジーとは一線を画している。

頭で理解している現実を実際に目に見えている現象だけでつなぎ直して、その手触りは残したまま世界をスライドさせているのである。

道路にはたくさんの羽が散らばってアスファルトってハト食べるんだ

アスファルトの歌で「たくさんの羽が散らばって」いるのは、鳥の衝突や事故があったのか。凄惨な現実が実は既にあった。
作者のくりはらさとみさんは、その原因はすっとばして、羽が散らばっている=アスファルトがハトを食べた、ほんとうは不気味な現象を、ユーモラスな物語に変換した。

雨で今、街は深海。ボクたちはスマホで顔を照らし合う海月

現代社会は、都市に、冷たさや寂しさを想起する。そうと限ってもいないのに、まずはそれが前提の通念がある。

しかし、スマホの画面に照らされる孤独な現代人を、暗い深海で自ら光るクラゲに見立てればどうか。本来なら冷たい都市の光景が、このすばらしい比喩(まことにすばらしい)によって、暗闇の中で光を放って生きている仲間たちだ。

蓋を開けカップ麺からたちのぼる虹の根元を箸でつまんだ

カップ麺にお湯を注いで湯気が立つ当たり前の物理現象を、虹の根元をつまめば宝物がある伝承へと昇華させた。

知性や常識で解釈する前の、子どものような純粋な認知の目で、世界を見直してみるのである。

作者のくりはらさとみさんの歌は、基本、受動型だ。世界に対して何かを仕掛けたり、自分の感情を大声で叫んだりはしないのである。
(むろんどっちがいいという話ではない)

アスファルトの痕跡に気づく。スマホを見る人々の中に自分を見出す。立ち上る湯気を箸でつまんでみる。それらは、世界の方からやってきたものだ。
くりはらさとみさんは、これらのかすかなサインを、見逃さないのだ。この穏やかで優しい受動性が、人の心を浄化させる。

されば、こうなろうか。
くりはらさとみさんの歌群は、ファンタジーと言うよりは、マジックリアリズムなのではないか。
(たとえばカフカや筒井康隆のような)

いつどこにでもある場面(アスファルト、スマホ、カップ麺)の土台の上に、異界のインクをほんの一滴垂らす。
くりはらさとみ短歌に共通する、これが、最大の魔法であり魅力だ。

日常を否定して、しかし、別の世界への逃避ではない。世界の認識の更新だ。
今ここにある現実も見方一つなのだ。見方を変えれば、呪わしくなることもある世界だって愛しくもなる。
(むろんそれは逆だってあるが)

短歌一つで、これまでの予断を排して、世界を、これまでと異なる世界に見ることができるのであれば、人に、短歌を読む価値はやはりあろうか。