小島一記の短歌より/保育所とニューハーフパブの共存の可否

保育所の隣りのビルの地下にあり昼は閉ざせるニューハーフパブ(小島一記)

本阿弥書店『歌壇』
2017.5月号
「通勤電車を待つしじま」より

こんな隣り合わせがあっていいのか。
と、言ってはアウトなのか。

そう思って当然だと思うが、それは、ニューハーフへの(ひいては性的マイノリティ)への偏見なのか。差別的発言になってしまうのか。

ニューハーフパブのことで小島一記が詠んだ次の二首に、筆者(わたくし式守)は、目を離せない。

ニューハーフパブのシャッター描かれし美しき女に長き尾のあり(小島一記)

ポスターのなほこちゃんなる人気者科をつくれば猫の歯の見ゆ(同)

『同』「同」より

<わたし>に子がある。

上のごときニューハーフパブの隣りにある保育所に、わが子は通っている、というわけだ。

どのような子か。

遠くより吾子の名呼べば「あとでねー」と返して後ろから姿が離る(小島一記)

お迎えにパパが来たよと言われても遊びやめない吾子の超然(同)

『同』「同」より

読み返す。

保育所の隣りのビルの地下にあり昼は閉ざせるニューハーフパブ(小島一記)

いいのか、この組み合わせ。世の中に幾通りの施設の組み合わせがあるか知らないが、この確率は高いのか。

ノープロブレムらしい。

この連作「通勤電車を待つしじま」には、次の一首がある。

ビデオオンデマンドの履歴今月もアンパンマンに埋められており(小島一記)

家庭の中に、わが子の趣味に、ニューハーフパブの成分は混在していない。

わが子の内にニューハーフの存在がない。あるのかも知れないが、アンパンマンの存在の方がはるかに大きい。

ではこう考えるのはどうか。
あったらいけないのか、子に、ニューハーフパブの成分は、と。
わが子の内にニューハーフなる存在はあってはいけないんですか。
いけなくない。
しかし、保育所に通う年齢の子にそれはまだ早い。

小島一記の「通勤電車を待つしじま」の最後の一首はこうだ。

ニューハーフパブに行く日はあらざらん新宿三丁目で乗り換える(小島一記)

わが子は、このあたりを、どう考える青年になるのか。
どんな考えを持つに至っても、それは、通勤電車に乗る年齢になってからでいい。父たる小島一記氏がそうであるように。
が、なほこちゃんに偏見を持つことと差別的発言をすることはあってはならない。