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太宰治と道づれになりし女性(ひと)の名を忘れしことなにか申し訳なし(木曽陽子)
本阿弥書店『歌壇』
2017.10月号
「チサの葉」より
記憶にとどめておかなければならない義務などどこにもないのである。
でも、この気持ちは、読者のわたしの不意を打った。
2
「太宰治と道づれになりし女性(ひと)の名」とは、山崎富栄である。
山崎富栄は、『太宰治との愛と死のノート』に、こんな言葉を残している。
愛してしまいました。先生を愛してしまいました。
率直に言って、恥ずかしい。
また、こんな言葉もある。
「先生の心なんか分からない。
分かるもんか!
馬鹿。分かるもんか!」
これ以上聞くのが辛くなってくる。
「太宰治、誰かの旦那さん。私が書いた絵で、似ているのは鼻だけ。」
鼻だけって、あなた、痛ましいなあ。
こんな女に手を出すなよな、太宰治もさあ。
3
二人は玉川上水で入水自殺を遂げる。
山崎富栄の名もいっしょに思い出してあげなければたしかに気の毒だ。
気の毒と言ってみた。
気の毒な話じゃないか、これって。
まさか圧倒的な恋愛に殉じたむしろ幸福の物語なのか。
こんな話は、人に、容易に批判などできなくさせる。
相手は既に死んでしまった。反論の機会がない。
だが、人は、自殺を遂げると、生き残った人に批判の機会を奪ってもいように。
4
この連作「チサの葉」で、先の一首の前に、次の一首が並んでいる。
チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて ふと思い出づ太宰の言葉(木曽陽子)
「同」より
人生の大半が、その作品群より自殺企図に埋められた印象もあるが、太宰の言葉には、たしかになぐさめられるものがあるのである。太宰治を愛読した青春期がなかった人にはわかりにくい憾みがあろうが。
5
なぐさめが欲しい、と。
ふむ。
それはたとえばこんな時か。
三日ばかりただ眠りたしふるさとの松葉かげさすたたみの部屋で(木曽陽子)
「同」より
6
いくら愛する相手といっしょと言ったってそんなに簡単に人は死ねるものなのか。死ねないように人はつくられているんじゃないのか。
それをできちゃった、と。
断固たる決意を抱いて、自分を殺すための凶器を手に持てば、死の恐怖は果てて無音の時空に身を置けるのかも知れない。
わたしは、年寄りというほどの年寄りではないが、既に若くない。
若くないからか、これまで何とか生きてこられたからか、太宰の小説を、今ではもう、読むことがない。
何度も何度も自殺を試した太宰よりもたしかに今を生きている者に、自分の今をたいせつにする姿に、心を寄せられるからである。
みっしりと重き桃の実洗いおり傷つけぬように落とさぬように(木曽陽子)
「同」より
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