短歌における肉体と精神/奈落の口が/花山周子の短歌より

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夜の風のぼおーぼおーっと吹く夜の腹筋を百回すれば開く奈落の口が(花山周子)

小さな娘抱き上げるときの感触が腕に兆せり路地を曲がりて(同)

いずれも
ながらみ書房『短歌往来』
2026年6月号「動脈」より

まずこちらの一首を。

夜の風のぼおーぼおーっと吹く夜の腹筋を百回すれば開く奈落の口が

「開く奈落の口」と。
腹筋なんかして地獄(=奈落の底)に落ちそうだ、ではないわけだ。

「奈落の口」とは、ギンヌンガガプ。北欧神話に登場する世界が創造される前の裂け目だ。
されば、腹筋は、地獄に落ちそうな受苦ではなく、むしろ再生の儀式か。

腹筋百回である。
腹筋自体は、そう言ってよければ、極めて個人的なことだ。
それを、作者の花山周子さんは、壮大な超自然現象に直結させたのである。

読み返す。

夜の風のぼおーぼおーっと吹く夜の腹筋を百回すれば開く奈落の口が

この歌の魅力を跳ね上げているのは、「夜の風のぼおーぼおーっと吹く」ことである。
脳内の血流の音とも思える。
あ、いや、隣に誰かがいて、もうおしまいにしたい、と泣きつくと罵倒されているのかも知れないが。

作者の花山周子さんは、腹筋をやり遂げた。
百回だよ、百回。
奈落の口が開いた。世界は再創造されたのだ。

そしてこの一首。

小さな娘抱き上げるときの感触が腕に兆せり路地を曲がりて

娘はもう大きくなった。
まだいろいろあるにしても、よく言う「手がかからなくなった」年齢にはなったのだろう。幼い頃は。しょっちゅう抱き上げていたものだが。
その感触が思い出されたのか。路地の曲がるところで。

そうじゃない。
そうじゃないと思う。

「奈落の口」は、ここにも開いていた。
路地を曲がった先は、世界の形が変わっている。これまで歩いてきた前方の景色は消えてしまうのである。

読み返す。

小さな娘抱き上げるときの感触が腕に兆せり路地を曲がりて

路地の曲がるところで、
作者の花山周子さんは、「兆せり」と。
終止形は「兆す」だ。

娘さんが幼かった頃の記憶が蘇ったのではないのである。新たに子を抱き上げる確信に近いものを持った。

花山周子さんは、腹筋百回にしても、子を抱く腕にしても、その肉体と精神の関係性について、短歌に本気で持ち込んでおられる。

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く

近代に生まれしもののひとつなる夜景の底にしゃがみこむなり

いずれも
『風とマルス』(青磁社)より

肉体と精神が互いに慰安するのである。

筆者は62歳男性である。子には恵まれなかった。
が、たいせつな人をこの腕に抱き上げたことくらいはある。
そこで感じられた腕の重さは、物体としての重さではなかった。

また、筆者とて幼い頃はあった。幼い頃は、やはり誰かに、たとえばからだの弱い母に抱き上げられたことがある。

誰かを慈しむ腕の重さ、それは、肉体を思うことでもそうであるが、「奈落の口」で「兆す」ことを生むのである。
狂おしいほどの愛の本能を。

筆者は、愛に無縁の人生ではなかった。

短歌における肉体と精神/奈落の口が/花山周子の短歌より