浜田康敬の短歌より/いかに生きるか/それをいかに詠むか

わが指を噛みしギヤーに注油する痛む傷口温めながら(浜田康敬)

第7回(1961年)
角川短歌賞
「成人通知」より

一読して、こう思うのだ。
この一首の、この調べは何。この低音は何、と。
このような仕事ゆえにこのような目に遭ってしまうことの言葉の激しさを、<わたし>は、ご自分に、厳として抑制なさっておいでなのではないか。

<わたし>は、工場の、雑草に打ちひしがれた労働者なのであろう。
が、この一首は、<わたし>に、そんな自己憐憫のようなものが、どの措辞にもうかがえない。
そのようなものはもとよりないのかも知れないし、内実は悲嘆があっても、いちいち自己憐憫に溺れてなどいない、とも考えられる。

こうして歌にしたからには、悲嘆や自己憐憫はないにしても、この人生に、未来に、思うことは少なくなくあろう。
が、出来上がった歌は、このような一首になった。

読み返してみよう。

わが指を噛みしギヤーに注油する痛む傷口温めながら(浜田康敬)

短歌内の<わたし>の悲運を同情すること小さくないが、わたくし式守は、この一首に憧れの花が咲く。
感情の抑制がある。
短歌内生命体としても、<わたし>の実体としても、見習うべきお姿かと。

注油が足りなかったから指が噛まれたのか。
あるいは、ここに注油が足りたことで、再発の可能性が生まれることはないか。
なんて皮肉な注油だろう。

傷口が痛むことの実感が時間差で読者に迫った。

次の一首とセットに記憶している。

指の傷うずきいて陽はかげりゆく寒き一と日の仕事終えたり(浜田康敬)

「同」より

これで仕事を終えるのに指の傷のうずきは癒えない。ばかりか寒さはなおある。

生きづらい歌が猖獗を極めている。
この趨勢を、わたくし式守は、否定していない。
そうあってもおかしくない社会背景もある。また、逆境の連鎖にくたびれ果てている人をどうして否定などできようか。
しかし、こうは思うのである。
この人生に、自分の値をそんなに安く付けていては、跳ね返せる逆境も跳ね返せるものではあるまいに。

ここに引いた二首だけでも、浜田康敬に、ご自分の値を安く付けている印象がない。
わたしもガテン系であるが、ギヤーに指を噛まれるようなことでもあれば、これは、一期の大事である。
されど、そこで、仕事を投げ出せるものではない。多少の蓄えはあるが、わたしが頼りの人あるを思えば、ギヤーに指を噛まれた程度で仕事を放り出せないのである。
そもそも受難なんてものがない人生があろう筈がない。
還暦を迎えた程度でナンであるが、この人生は、逆境にある時間の方がはるかに長くはありませんか。

要は、自分を制約する人生の条件のサイズの認識なのである。
インディ・ジョーンズを追いかける岩に見えて、実は、小石一つのサイズかも知れない。
浜田康敬は、それはそれは寒い日の仕事上の受難に、ほんとうは耐え難きを、小石程度に感情を抑制してみせるのである。

歌作にしても同じなのだ。
感情を抑制して、低音で、読む者を説き伏せるのである。
短歌における<わたし>とは、一首内に描かれている姿ではない。その一首をいかに詠んでいるか、そのいかに次第で、<わたし>は結像する。

浜田康敬の「成人通知」は、こんな一首もある。

静かさのうちに未来をうずかせて朝明けに間のある刻(とき)目覚めいつ(浜田康敬)

「同」より

未来がある。

角川短歌賞サイト
参考リンク