短歌は抑圧されたドッペルゲンガーの<わたし>を生み出すか

20代後半だった。
東京の私鉄の某駅で降りるときに、ホームから乗り込む人は、わたしと姿形が同じだった。お互いに驚愕の顔を見せ合った。
そっくりだったことはたしかだが、もはや同一人物だったのかどうか、そこまで観察するゆとりを、時間的にもそうであるが、精神的に持てなかった。

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数日後、ランチタイムに、職場近くの駅中を歩いていると、同僚の女子社員がいた。
女子社員2名は、わたしを見ると、恐怖の叫び声をあげた。
無礼なやつらだ、と思っていると、
「たった今、蕎麦屋にいたじゃありませんか」

電車の男にしても、蕎麦屋の男にしても、それは、同一人物でも何でもない。たしかにそっくりではあったかも知れない。が、それだけのことだったのかも知れない。
そして、分母が兆を超える確率の出来事が、たまたまわたしに現実になっただけのことかも。

世界に自分とそっくりな人間が3人はいるとか。
よく聞く話である。
この3人が、遺伝子学的にどれほどの信憑性がある人数かは知らないが、それくらいならあるのかな、との根拠のないイメージがないでもない。
で、ほとんどの人は、われ以外の他の3名いずれかと遭遇することはないまま生涯を終える。が、このわたしは、たまたま遭遇した、とか。

偶然だったのである。
似ていたのも。遭遇したのも。
しかし、わたしに、これは、はっきりと恐怖だった。
偶然に過ぎないのであれば、底冷えする恐怖があったのは、いったいなぜ。

ドッペルゲンガーについては、巷に、多くの著書があるし、ウェブサイトに、このワードで検索されるページは無数にある。
そこには、ドッペルゲンガーを見たことがある史上の人物として、リンカーンや芥川龍之介の名が、よく挙がっている。
語り継がれている話なのだろう。

ドッペルゲンガーが存在することは、しかし、証明されてはいない。

遠藤周作の『スキャンダル』を、わたしは、まだ若かった時に読んだ。
電車の男(もしくは蕎麦屋の男)とは既に遭遇していた。

キリスト教作家の勝呂は自作の授賞式で、招待客の後ろに醜く卑しい顔をした、自分に酷似した男が立っているのに気が付いた。同じ頃、勝呂が歌舞伎町の覗き部屋や六本木のSMクラブに出入りしている、という醜聞が流れる。この醜聞を執拗に追うルポ・ライターに悩まされながら、もう一人の〈自分〉を探す勝呂が見たのは…。

「BOOK」データベース
遠藤周作『スキャンダル』より

『スキャンダル』の「もう一人の〈自分〉」が、勝呂が抑圧しているところの分身であるとして、では、いつどのように分身は生まれたのか。

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電車の男(もしくは蕎麦屋の男)と勝呂が、わたしの世界観に与えた影響は、けして些細なものではなかった。

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分身に対して、わたしは、主たる存在なのか。あるいは、分身こそが主で、わたしは、従たる者なのか。
わたしと分身の、いずれかは、もう一方の抑圧したものによって誕生したのか。
わたしは、今、まことに10代のわたしの延長を生きているのか。

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さればこうも言えないか。
日中に、街で、手をあげて挨拶した知人は、その人の分身に過ぎなかった。

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短歌において、この主題を表現したものが、どこかにないか。
ない。
が、そのように解釈してもいいかな、と思わないでもない一首は、読んだことがある。

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書肆侃侃房(新鋭短歌シリーズ)『風のアンダースタディ』の「風のバラード」の章に、次の短歌がある。

プラチナのペーパーナイフで空を裂き回想シーンから出て行かなくては(鈴木美紀子)

「出て行」きたい<わたし>は、この世界を生きている鈴木美紀子であるとして、その「回想シーン」の世界は、主たる鈴木美紀子の生きている世界なのか。
従たる鈴木美紀子が生きている世界なんてことはないか。
それも、主たる鈴木美紀子の抑圧した、従たる鈴木美紀子の世界だったのではないか。

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深読みも深読み。
そのような読みの余地が認められるとしても、これでは、強弁の誹りは免れないか。

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恐怖。
短歌における恐怖。

同『風のアンダースタディ』の「無呼吸症候群」の章に、次の短歌がある。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる(鈴木美紀子)

鈴木美紀子の、もはや代表歌とも位置付けられている、これは既に広く膾炙されている作品である。

となりに眠る夫への、刑法における、あたかも不作為の殺人であるかの印象が、これを、恐怖の短歌にカテゴライズする。ということなのであろうが、エンターテイメントとしてみれば、それもおもしろい読み方であるし、事実、そのように読むのが正統なのだろう。

だが、わたしは、この短歌を、そのように読んでいなかった。
人さまとチューニングが合っていないこと多々あるわたしであるが、こうも、人との落差を覚えたこともそうない。

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わたしは、そうは、読まなかった。

刑法上の作為の義務に違反してはいよう。
しかし、「無呼吸症候群」に、鈴木美紀子の<わたし>は、何の手も打てないでいる。不甲斐ない、と。そのようなかなしさをしずかに嘆く歌だとばっかり思って読んでいたのである。
相聞歌ではなかった。

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そのような局面で、人間は、抑圧を余儀なくされる。
抑圧の果ては、その胸の奥処に、あってはならない自分なのに、たしかな形をもって生み出すことがある。

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プラチナのペーパーナイフで空を裂き回想シーンから出て行かなくては(鈴木美紀子)

これはほんとうのわたしの「回想」ではない、とのかなしい叫びと読んではだめなのか。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる(鈴木美紀子)

この「おしえないまま隣でねむる」<わたし>を内心で罰していることで誕生してしまった別の(しかし同一人物でもある)<わたし>の「回想」に閉じ込められた。
閉じ込められてしまった。

かくして、わたしは、「あなたは無呼吸症候群」よりもむしろ、「プラチナのペーパーナイフ」こちらの一首の方にこそ、これ以上にない恐怖を覚えるに至った。

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