短歌の読み方に『ノルウェイの森』で生まれた読み方は可能か

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ハルキストではないが、村上春樹の『ノルウェイの森』は、いくたりと読み返した。
嘘というものは何か、都度、深く考えさせられる。

だからと言って、『ノルウェイの森』は、嘘がテーマの小説ではない。
また、嘘を動力として、物語を、先へ先へと読ませているわけでもない。

この『ノルウェイの森』は、話が進む動力の基幹部に、直子がいる。

主人公のワタナベが直子と寝たのは、直子の、二十歳の誕生日の夜だった。
そして、直子は、姿を消す。

直子は、心を病んでいた。
もっとももともと病んでいた、と考える方が自然か。

それは直子の手紙でわかる。
この手紙に、直子の嘘は、どこにもない。

3

緑という女性がいる。

緑は、ワタナベに、父はウルグアイに行ってしまった、と。
家族を捨てて行ってしまったんだそうな。

ところが、後日、ワタナベは、緑の父が入院している病院に、緑と見舞いに行くことになる。
ウルグアイに行ったんじゃなかったのか、となった。

「嘘よ、そんなの」緑は言った。

4

直子が心を病んで療養している医療機関に、レイコという女性も療養していた。
直子が慕う、直子に献身的な、年上の女性だ。

レイコは、ピアノのレッスンプロだった。

美少女の生徒がいた。レイコに、性的な誘いをかけた。それもしつこくかけた。レイコは、美少女をはたいて、これを拒否した。
以後、レッスンに、美少女が、顔を見せることはなくなった。

ところが、レイコは「札つきの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずら」している、との噂が流れた。

5

精神科医の林公一氏による『Dr 林のこころと脳の相談室』というウェブサイトがある。

ここのコラム「林の奥」に、『ノルウェイの森』の書評(2014.02.23)がある。
『ノルウェイの森』の書評の、わたくし式守の知り得る限りで、これは、最高のものかと。

美少女Lの虚言については、「あれはもう完全な病気よね」というレイコの説は、かなり納得できるものである。では『ノルウェイの森』に登場するもう一人の虚言者、緑はどうか。父がウルグァイに行ってしまったと真っ赤な嘘をついた緑はどうか。
(中略)
まあ罪のない軽い嘘だ。
(中略)
美少女Lは虚言者。だがその判断は、専らレイコの話に基づいている。レイコ自身が虚言者という可能性はないのか。ある。

『Dr 林のこころと脳の相談室』
「ノルウェイの森」(2014.02.23)

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ここからは、林氏も触れていない登場人物の話になる。

『ノルウェイの森』には、永沢という若い男性も登場する。
東大を出て外務官僚になる。

永沢は、恋人のハツミに、こんなことを口にする若者だ。
「俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ」

そして、その「システム」とやらで、その人生を、冷静に着実に生きてゆく。
しかし、その「システム」の先は、恋人のハツミに、最悪の結果が待っている。

永沢に、嘘は、どこにもない。
永沢の「システム」とやらに、嘘は、組み込まれていないのである。

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では、主人公のワタナベに、嘘はどうだった。

結論的に、ワタナベにも、嘘はなかった。

ワタナベは、自分でもよくわからないままに、直子を庇護する。
緑に、正直に、それを打ち明けてもいる。
また、レイコに、ハツミに、ワタナベが、嘘をついたことはない。

ただ、ワタナベの、直子へのあり方は、何と言えばいいか、いかにも危うい。

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ワタナベは危うい、と。
若い人は誰だってそうなのだ。

永沢が特別なのだ。
「システム」なんて口にできる、この自意識の欠如は、いかにも若いが、口先だけのシステムでないのは確かなのである。

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登場人物嘘の有無
直子
レイコ不明
永沢
ハツミ
ワタナベ

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嘘のない永沢は、勝者の人生を、邁進する。
が、直子とハツミは、同様に嘘がないが、自分で自分の命を絶っている。

ワタナベはどうか。
緑に救済されている。また、そこに至るに、レイコの力に与ること少なくなかった。

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レイコはやはり虚言者ではないのか。

永沢の嘘のなさはどれだけの意味がある。

緑はなぜゆるされる。

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書肆侃侃房(新鋭短歌シリーズ)『風のアンダースタディ』の「風のバラード」の章に、次の短歌がある。

これ以上きみには嘘をつけないと雨は霙に姿を変えた(鈴木美紀子)

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「嘘をつけない」とは、<わたし>のことである。
あるいは、「雨」である。

あるいは、<わたし>=「雨」か。

単純に、それはもう単純に演繹すれば、「雨」は、ほんとうは「霙」だった。

しかし、<わたし>は、「きみ」を前に、このまま「雨」を擬態していられなくなった。
そっちがほんとうであるところの「霙」になった。

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が、「霙」もまた、擬態かも知れない、とは言えないか。

鈴木美紀子は、この一首に、「姿を戻す」とは詠んでいない。
「変えた」が、修辞上の、選び抜かれた結果であっても、「戻す」と読み替えられる可能性が高いとは言えまい。

「霙」もまた、<わたし>の変幻の、一形態に過ぎない。

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