西行の歌/苦しむ身は苦しむための身にあらず/月を任せてん

これは、趣味を持つとか持てないとか、そのようなレベルの話ではない。

若い人は、わたしが若かった頃もそうであるが、この人生に何ができるか自分の可能性を探るが、いたずらに時間は過ぎるばかりで、気がつくと中高年になっている。

仕事に埋没して、その外に、これは、と思うものを探すことはなくなる。

というようなことを、今回、思いつくままに。

たとえば英会話やフィナンシャルプランナーの書籍を購入する、といったことがないでもないが、それも長くは続かない。通勤車内でちょっとやそっと読んでみる程度で、英会話もフィナンシャルプランナーのハードルも、そう易々と越えられるものではないからである。

働くとは働く以前に覚悟していた以上に厳しく、働く以外はないまま一日を終える毎日が、いつしか完成してしまうのである。

会社こそわが人生であれば、一応の解決がつきそうであるが、しかし、この国は、働かない人どころか、その仕事が生産的なものでない人に後ろ指をさしておきながら、50を過ぎた人は、だんだん出番が与えられなくなるのである。

もう残り時間も少ない人生に何をがんばれと?

たとえ英会話やフィナンシャルプランナーのハードルを越えられたとしよう。されど、その先にどれだけのことができると?
いっそできるだけ観照のない頭で日々を送ろう、ともなるではないか。

かくして、人生がこのままでいいのか、自己検証したのは、遠い昔の話になる。

私的な位相で苦しい十字架を背負っていれば、話は、なお酷である。
この人生に何かを夢見ることを慫慂されるなど残酷なだけの人生もあるのである。

わたしは短歌と縁があって、この人生を、今からでもまたがんばってみよう、となった者である。
しかし……、

いくほどもながらふまじき世中(よのなか)に物を思はで経るよしも哉(かな)(西行)

<山家集1323>

短歌と縁があって、この人生を、今からでもまたがんばってみよう、とはしたが、しみじみとこう思うこと、今もなお、日々、いくらでもある。

繰り返す。

いくほどもながらふまじき世中(よのなか)に物を思はで経るよしも哉(かな)(西行)

これだけの歌が、がんばりさえすれば、わたしでも残せる、というのであれば、人生がんばってもみる甲斐もあろうが、わたしでは、いくらがんばっても、このような歌は残せまい。

で、がんばったってバカバカしい、ということにまたしても振り戻されてしまうのである。

次のような一首もある。

心から心に物を思はせて身を苦しむる我(わが)身成(なり)けり(西行)

<山家集1327>

この一首は、何も形而上の歌と決まった話ではないが、もっと一般論に還元する余地はあろうか。

人間、生きていれば、かくあらざるを得ず、との。

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50を過ぎたのにまたがんばってみよう、とはなったが、自分は何だか魔がさしてしまったのか、と思うことさえある。

では、次の西行さんは、どうだろう。

いかでわれ今宵の月を身に添えて死出の山路の人を照らさん(西行)

<山家集774>

詞書がある。

七月十五夜、月明(あか)かりけるに、舟岡(ふなおか)にまかりて

西行さんは、「舟岡にまか」ると、「死出の山路の人」のための自分であることを願った。「心から心に物を思はせて身を苦しむ」その身は、このような身でもあったのだ。

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この一首は、わたしのふいを打ったが、それは、歌の巧拙の巧のすばらしさからではなかろう。巧拙がいかようであろうと、ご自分を、「死出の山路の人」のために差し出していたからかと。

無私の心を剔出して、そのすがたは、いやしくない。

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西行さんの歌。これで最後。

雲にたゞ今宵の月を任せてんいとふとしても晴れぬ物ゆゑ(西行)

<山家集952>

わたしは臆することなくわたしのままでもがいていればいいようだ。

「いとふとしても晴れぬ物ゆゑ」実人生も、短歌の道も、どう足掻いても、今のようにしか生きられないのである。

とも思えば、逸脱なく気持ちが落ち着いてこないだろうか。

倉田百三は、その著書に、この歌を引いて、次のようなものを残している。

「光雲無碍」ということであります。私も耳鳴りで苦しんだときにこのさわりがありながら、そのさわりを取り去るのでなくそういう境地になれるのだがなということを願ったわけであります。幾ら願いましても、わかっていても、どうしてもいけない。そのはからいの業縁(ごうえん)が尽きましたときに、そのはからいというものがやみまして、そのときに私は耳鳴りというものから救われた。

倉田百三
『生活と一枚の宗教』
「三 善悪を横に截る
――法的自然主義の生活へ――」
(あるがまま)より
「さわり」については

僧に帰依するというのは、「一切無碍ならん」ということだというのです。無碍というのは“さわりなし“”障害なし“”仲間たちの間にまごころが無限に広がってゆく“ということですが、そういう融通性(ゆうづうせい)のある「真実眼(しんじつがん)」をひらこうというわけです。

(財)仏教伝道協会発行
『わたしと仏教』
「名僧は語る」
葉上照澄(はがみ しょうちょう)
天台宗

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