大松達知の「娘」/短歌における子のない読者と主演の子ども

1

わたしには子がない。

マンションの清掃作業員である。
子どもをかわいがるのは、そこでの仕事に限られるが、わが子ではないアタリマエを痛感することしきりである。

2

若いご夫婦がよく入居するマンションである。
仕事としてそのサービスに差をつけてしまうようなことはないように自戒しているが、相性のいいご世帯とそうでもないご世帯は、どうしても分かれてしまう。

相性のいい新婚さんに、おめでたのニュースがあると、大きなよろこびを得られる。
やがて赤ちゃんに会わせてももらえる。
かわいい。涙をおさえかねるではないか。おさえることもないのであろうが。

要らざる補足とわかった上であるが、清掃の仕事は、それが現実の話として、たしかに汚れ仕事であるが、世の下積みにひしがれた雑草の日々ではないのである。

子どもというのはすぐ大きくなるらしい。どの子にも感動を覚えるが、気がつくと、子どもたちは、歩いたり話したりしているのである。
まだ若いお母さんを心より敬う。どんなにおたいへんだったか。

おじさん、おじさん、おじさん、おじさん、と寄ってくれる子もいる。
かわいい。まったくかわいい。

エレベーターから女の子がパパと出てきた。
おじさん、おじさん、おじさん、おじさん、の子である。が、今日は、そんなことをしない。寄ってこない。パパしか頭にないようだ。わたしは眼中にない。
パパとセメダインでくっついているのである。

パパと娘を目で追う。
そのままパパと進む少女。ガラスの扉が開けられる。ふりむかない。

実の親に、わたしは、絶対にかなわないのである。他人さまの果てなき血の鎖を目にするしかわたしにできることなどない。

5

AYAちゃんなる子が、小学3年生になった。
ずっと見守ってきた子である。話したり歩いたりすることに、この子にも、おりおり、感動してきた子である。

エレベーターが開く。AYAちゃんがいた。
わたしの姿を見るや、AYAちゃんは、わっ、と泣き出した。駆け寄ってわたしの腹にしがみついた時はさすがに混乱した。

ひとしきり泣かせておく一方で、わたしは、この子の耳の裏をのぞく。そっと背中や腕をたたいて痛がらないか確かめる。

問題はない。
よく手がかけられている。虐待もない。

この子の弟は病弱で、お母さんにいかに苦労がおありか、知らないことはなかった。瞬時の疑惑を、わたしは、ひどく悔いた。

AYAちゃんはまだ小3であるが、すでにして人生ののみこめないものをのみこんで生きているのか。わからない。わからないが、ただ、こんな小さな子も悲歌を聴く家庭の朝があるのである。

現代のご時世では通報されかねないが、わたしは、この子をしばらくひしと抱きしめておく。抱きしめておくが、どこまでも、まことどこまでもわたしの娘ではない。

AYAちゃんの世帯がご退去することになった。
川を隔てた隣りの県(市)に引っ越す、と。

AYAちゃんも下の子も大きくなったからか。ご両親も、預貯金が増えてきた年代でもあろうかと。また、下の子のこともあろうか。
ご夫婦の大計あってであろうが、何にしたって、わたしに口をはさむことのできよう筈がない。

「また会えるといいね。遠くない距離だね」
が、AYAちゃんは、
「無理だよ」と。遠いよ、遠いよ、と。

ちょっとおじいちゃんみたいなパパって言われたと、ちょっとだよって娘は言った(大松達知)

KADOKAWA『短歌』
2018.8月号
「こんな学校」より

「娘」は、父のおもしろい寸評を得たことで、これを、<わたし>に話してみたかったのだろう。しかし、<わたし>を傷つけまいとちゃんと「ちょっとだよ」と。

これは涙をさそうような短歌ではない。もっとも親への子の無垢のおもいに涙なきを得ないでもないが。

作者・大松達知は、この短歌を、わが娘のあまりのかわいさに、そのかわいさを表現したとは思えない。それはわが娘であるが、一少女の父へのおもいに幾重あるかを、短歌に包蔵してみたのではないかと。

わが人生にこのような言葉を与える生命は得られなかった。
不謹慎なことこの上ないのは百も承知であるが、わたしは、この子を自分の子にしたくなる。

しかし、そんなことに絶対にならない。

読み直す。

ちょっとおじいちゃんみたいなパパって言われたと、ちょっとだよって娘は言った(大松達知)

なに仕事場のマンションにいるのと同じなのである。
この「娘」は、どれだけ利発で、どれだけかわいい子であることか。が、どこまでも、まことどこまでも私の娘ではない。

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