
1
カンタンにわかってしまう財務諸表、
といった類の本がある。
まずことわっておくが、わたしは、このような類書を、ここで、否定しているわけではない。
自己啓発に何かを始める人があれば、わたしはむしろ、その姿を讃える者である。
2
ただ、何冊か手に取ったが、「わかってしまう」どころか、これでは「わかってしまう」ことから遠ざかってしまうのではないか、との危惧がないでもない。
改めてことわっておくが、その著書を、否定してはいない。
しかし、ここに載せられていることを基に財務諸表を眺めて、どれだけのものを得られるだろう、と。
3
実例をここに引いて、たとえばここをこう理解してしまうと、その筋の人に哂われてしまいますよ、などといった発言はしない。
しないが……、
4
たとえば、わたしに、貸借対照表の固定資産の合計と損益計算書の営業利益、この関連性に、ここがどんな体質の企業かイメージして、場合によっては、この企業の将来性を悲観する、なんてことができなくもない。
財務諸表を一般の人より見通せるのである。
経理の現場に、四半世紀近く身を置いて、たかが知れた程度ではあろうが、そこでねばってきたからである。
5
家庭の事情で、わたしは、平均的企業人よりも早くリタイアした。清掃のフリーターになった。
仕事というのは何だってたいへんで、清掃の仕事もまた、容易にスキルアップできるものではなかった。
6
たとえば、どなたかが、モップを手にどこをスタート地点に立ってみたか、からだがどこに向いているか、それだけで、その人の作業品質が、今のわたしはわかる。
10年を超える時間を、清掃の世界に身を置いて、たかが知れた程度ではあろうが、そこでねばってきたからである。
7
財務諸表を見通せようが見通せまいが、そんなことは、自分の経理事務に要らない。
なんてこともあろう。
モップの作業品質が高かろうが、高くなかろうが、そんなことは、自分の清掃作業に要らない。
なんてこともあろう。
最低限の給与は手にできる。それは個々人の人生観によるかと。
が、たとえば短歌を世に出したい、との志を持って、短歌を始めた人だったらどうか。
上手になろうが、上手でなかろうが、そんなことは自分の短歌に要らないと?
8
時間なんてものは、うかつにこれを考えていると、すぐ大昔になってしまう。
が、他の人より紙一枚の差でいい、ねばってみると、いつしか何かを獲得していた、なんてことがあるのである。
わたしは、いい中高年になっても、人生に、そのような褒美があったことに気がつかなかった。
短歌にもそれはあるのか。
ある。
ある、
と言えるだけのことを、非才のわたしでも、ちゃんと体験できた。
9
弾くためのピアノひたすら置かれゐるあかるい二階いと遥かなり(紀野恵)
KADOKAWA『短歌』
2015.9月号
「竹の里(うち)にも」より
初めて読んだ時のことをよく憶えている。
一言、わかんない。
おもしろいもつまんないもない。わかんない。
この連作には、他に、こんな短歌も並んでいて……、
幽かなる憂れはしごとのひとつなりわが細胞の分裂続く(紀野恵)
独り在る朝(あした) 西紅柿(トマト)の賑やかに熟せる気配ばかりが目立つ(同)
短歌を始めたばかりのわたしは、この連作を読んで、気が遠くなってしまったものだ。
わたしは短歌の頭がない。
景は浮かぶ。
しかし、短歌的な抒情を、わたしは、どうしても呼び起こすことができなかった。
できなかった。
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わたしは、現在、投稿は、NHK短歌と読売歌壇(選者・黒瀬珂欄)にこつこつ投稿しているが、採否をようやく気にしなくなってきた。
掲載されればうれしいには違いない(アタリマエだ)が、結果に一喜一憂する前に粛々と投稿してゆく以外は、わたしに残された人生に方法がないのである。
その肚がすわると、短歌を作る階梯として、まず短歌を読める人間になる必要性を思うこと日増しに強くなってきた。
ここに至って、紀野恵を、例の連作を読み返してみたらどうなるだろう、となって……、
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圧倒された。
眩しかった。
弾くためのピアノひたすら置かれゐるあかるい二階いと遥かなり(紀野恵)
二階にピアノがあるとか。
が、それは、はるか高く。
さなきだにしずかな二階がひとしおひっそりとしている。
かつては、このピアノを、夢中になって稽古していたことがあったのかも知れない。
今は、しかし、悪く言えば、もう放擲したものだ。弾くためのピアノはただただ置かれてあるだけで、ピアノに、存在としての価値はない。ピアノは、その実体さえ、もはや薄くなっているのである。
だからあかるい。
上へ上へとそれは限りなく。やがて身を遮るものはなく。
ピアノはもう<わたし>を留め置かない。
ついには万里の天空へ、紀野恵は、その身を、わたくし式守の身をはこぶ。
紀野恵は、ご自分の運命を、見通しておられるようだ。
それは死。
死、しかし、悲運ではない。
今はまだ生きている。下界で世俗にまみれている。
ほれ、次の一首のように……、
幽かなる憂れはしごとのひとつなりわが細胞の分裂続く(紀野恵)
<生>なる時はまだ続いているのである。新鮮な感度はなお保たれている。
独り在る朝(あした) 西紅柿(トマト)の賑やかに熟せる気配ばかりが目立つ(紀野恵)
<死>の直前の時を、「西紅柿」は、見よ、とばかりに騒いでいる。
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紀野恵と限らない。短歌と限らない。
わからない、としてしまうのは、そこのある世界を、それまでの狭く浅い情理で推していたからだった。
そして、紀野恵。
この歌人は、一首一首に、美しい動機があったのだ。
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紀野恵の短歌が慕わしい。
わたしに短歌は慕わしい。
わが残りの人生に、投稿の筆を折ることはあっても、短歌に別れを告げることは、ぜったいになかろうかと。
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