野口あや子の短歌の夏目漱石の『猫』の猫のようなスマホの歌

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きみがいない日々など考えられないと複数人にいわれる幸よ(野口あや子)

てのひらに収まる機器を見つめつつ全能の季(とき)はさびしからんか(同)

短歌研究社『かなしき玩具譚』
(携帯電話)より

前者

きみがいない日々など考えられないと複数人にいわれる幸よ(野口あや子)

主格は携帯電話、と判断できる。

それは、続く一首に、「てのひらに収まる機器」とあることで判断できる。

後者

てのひらに収まる機器を見つめつつ全能の季(とき)はさびしからんか(野口あや子)

ここはフツーに、
主格は<わたし>、と判断できるか、と。

下句に、携帯電話への心情があることで判断できる。

前者の
きみ

したがって、この一首の「きみ」は、携帯電話である。

読者は、「複数人」に属する。
また、「複数人」は、人間たち、あるいは愚かなる人間たちと読み替えることも可能かと。

後者の
<わたし>

前者の携帯電話の幸に全能感を観取した。
ついては、これを、哀愍することを余儀なくされた。

いったん読み返す。

きみがいない日々など考えられないと複数人に言われる幸よ(野口あや子)

てのひらに収まる機器を見つめつつ全能の季(とき)はさびしからんか(同)

短歌研究社『かなしき玩具譚』
(携帯電話)より

きみがいない日々など考えられない

人間たちの携帯電話への猫なで声である。

恋愛に陥ると、人の心の皺に甘い薬物が発生して、この薬物は、臆面もなく、後年、はなだしく悔いることが待っていようと、人聞きの恥ずかしいことを言わせてしまうのである。

全能の季(とき)はさびしからんか

とにかく人間は愚なものであるから撫でられ声で膝の傍へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為すままに任せるのみか折々は頭さえ撫なでてくれる

夏目漱石
『吾輩は猫である』より

と、いうことを、後者の一首の<わたし>は、冷静に観察している。

わたくしで世代をくくるが役目なりチェーン細きを朝光(かげ)に挿す(野口あや子)

短歌研究社『かなしき玩具譚』
(携帯電話)より

かつ歌集『かなしき玩具譚』先頭の一首である

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携帯電話を、令和の現代ではもう、スマホのこと、と言ってしまってもよかろうか。たしかに人間たちに「世代をくくるが役目」はあろうか。

そのあたりもたのしく読んだが、この一首が、わたくし式守を躊躇なく捉えたのは、次の一文が連想されたことによる。

すなわち

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石
『吾輩は猫である』より

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わたくし式守は、野口あや子の『かなしき玩具譚』を、当サイトにしばしば引いているが、初読の、その一首目にして驚嘆し、かつまた短歌という文学に大いなる歓喜を得られたことが、そもそもの始まりだったのである。

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